22日は土用の丑の日。この日には、皆そろってウナギの蒲焼を買い求めます。日本人は世界的に見てもかなりのウナギ好きなんやないかと思います。
蒲焼をご飯にのせると「うな丼」或いは「うな重」のできあがりです。ウナギの香ばしい香りとタレのしみたご飯の甘みが何とも言えまへんな。
しかし、近年はシラスウナギが不漁で養殖ウナギもえろう値上がりしてますな。それというのも、環境の悪化のみならず、ウナギの生態がよう分からず、完全養殖がでけへんという事情が大きいらしい。このあたりのことは、面白い記事がありますんで、そちらをご覧になってください。
さて、「土用丑にウナギ」という風習は、江戸時代の中期に始まったそうですが、夏バテ対策にウナギというのは、もっと昔から言われていたようです。
なんと『万葉集』に、
石麻呂に 吾もの申す 夏やせに よしといふ物そ むなぎ取りめせ
※「むなぎ」はウナギの古い呼び方
という大伴家持の歌が載っているんです。
それに、ウナギの骨は縄文時代の遺跡からも発見されているそうですから、日本人にとって最も馴染み深い魚の一つと言えるんやないかと思います。
ところで、なんで「蒲焼」て言うんでしょうな?とても蒲には似てしまへん。気になって調べて見ますと、「蒲焼」という言葉が初めて見えるのが、「鈴鹿家記」(1399年)という書物。
そこには、
「昔は鰻を長きまま丸で串にさして塩を付け焼きたるなり、その形川辺などの生たる蒲の花の形によく似たる故にかばやきと云いしなり」
と書かれています。
なんと、昔は丸ごと焼いて食べてたんです。
串に刺さったその様子が蒲の穂に似ているから「蒲焼」なんですな。
そういうたら、「蒲鉾」も元々は、竹の周りに魚のすり身をつけて焼いた形が「蒲の穂」に似てるところから、そう呼ばれたらしい。後に「板付蒲鉾」が出来て、それがもっぱら「蒲鉾」と呼ばれるようになって、元の「蒲鉾」は、「竹輪」になった。なんや妙な縁ですな。
さて、「蒲焼」はその後、ぶつ切りの付け焼きになった。1600年ごろの『大草家料理書』に「宇治丸(宇治川産のうなぎ)かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也。」とあります。
今のように食べやすく開いてから串にさすようになったんは、江戸時代後期。幕末には、江戸の名物として知れ渡っていました。
1853年といいますから、ペリー来航の年ですが、『傍廂(かたびさし)』という随筆に、「昔は蒲焼もうなぎの口より尾まで、竹串を通して、塩焼にしたるなり。今の魚田楽の類なり。さるを、今背より開きて、竹串さしたるなれば、鎧の袖、草摺(くさずり)には似れど、蒲の穂には似もつかず。名儀は失へれど、味は無双の美味となれり。これはいにしへにも遙にまされり。わきてこの大江戸なるを極上品とせり。」とあります。
今お馴染みの「蒲焼」が登場したんは、ウナギと日本人の付き合いの中では随分「最近」の出来事ですな。
ウナギという魚は、殊料理法に関しては、えらい珍しい魚で、蒲焼ばかりで、他の料理法がほとんどおません。
ほなら他に食べ方はないんかというとそんなことはありませんので、ちゃんとあります。
江戸時代の料理書には蒲焼のほかにも、なます、さしみ、すし、山椒みそやき等が挙げられてます。もっとも、どれも今ではほとんど目にする機会はありませんが。
今食べられるウナギ料理というたら、きゅうりとウナギの酢の物の「うざく」、出汁巻で蒲焼を包んだ「うまき」、タレをつけずに焼いてわさびで食べる「白焼き」ぐらいですな。
それから焼き鳥のように部位ごとに串にさして焼く「串焼き」。これはかなり珍しい方ですな。
極めつけは「半助豆腐」。半助というのはウナギの頭のこと。その半助と豆腐、葱などを、酒、醤油、砂糖、みりんで味をつけた汁で煮込んだもんで、大阪の郷土料理です。本来捨ててしまうところで一品作ってしまう、節約を身上とする大阪人の真骨頂とも言える料理ですな。
しかし、「半助豆腐」が大阪にだけある理由は、節約精神だけやないんです。
関東風蒲焼は、背開きにて頭を落とし、等分に切って串を打ち、白焼きにした後、蒸してからつけ焼きします。
ところが、関西風は腹開きにして、頭をつけたまま串を打ってつけ焼きにします。
関東では真っ先に捨ててしまう頭が、関西では最後までついているんです。 実際、スーパーで売っている蒲焼も、関東では頭がありませんが、関西では「尾頭つき」の長焼きが主流です。
タレをつけて焼いてあるので、頭には味がしっかり染み込んでて、ええ出汁がでます。せやから、捨てるのはもったいないというので、「半助豆腐」ができあがったんですな。
簡単!「半助豆腐」(1人分)のレシピ
材料
・半助……6尾分
・豆腐……半丁
・長ネギ……1/2本(または九条ネギ……半束)
・水……300cc(美味しくするには出汁を使う)
・酒……100cc
・みりん……適量(50cc程度)
・薄口醤油……適量(50cc程度)作り方
材料を全部鍋に入れて、中火で10分ほど煮込むと出来上がり。
仕上げに粉山椒を振ると風味が増します。
しかし、考えてみると、白焼きと串焼き以外は結局基本は蒲焼ですな。現代の日本人にとってはウナギというたら蒲焼、そう言うてええでしょうな。それだけ蒲焼はウナギの食べ方として日本人の味覚におうた料理法なんですな。
さて、落語の方で「ウナギ」というと、先ほどの半助が「遊山船」に出てきますし、「鰻屋」という噺もあります。しかし今日は変わったところで、「鰻谷」をご紹介しましょう。昔はウナギは食わなんだ、という大嘘で、いかにも上方落語らしい噺です。
昔、大阪は長堀川の近くに、菱又という料理屋さんがございました。ここの主は大変に偏屈でございまして、魚がとれているときには店を閉め、シケで他がみな休業している時には、店を開けるという変わり者でございます。さて、何日も続く大シケがやってきて、他の店がすっかり休業してしまった頃を見計らいまして、この主人、店を開けましたが、当然魚なんか一匹もございません。これは困ったというので探しにでますが、あるはずもございません。そこでふと長堀川を見ますと、ヌルマという魚がたくさんわいております。ヌルマ、別名ノロともいいまして、当時、年まわりが悪いと見ただけで即死するという縁起の悪い魚とされておりまして、食べたものなどございませんでした。主人はこのヌルマを持って帰って、刺身にしたり煮物にしたりしてみますが、脂が多くて食べられたものではございません。そこでしょうゆとみりんで作ったタレをつけて、つけ焼きにしてみますと、これが食欲をそそるいい匂いがいたします。しかし、食べると死ぬというヌルマ、近所のものはだれも食べようとはいたしません。
さて、そこへ薩摩の侍たちと、当時浪花五人男といわれた荒くれもの連中とのケンカの知らせ。菱又の主人は飛んでいって仲裁に入ります。
この浪花五人男というのは実在の人間で、頭領が雁金文七、雷庄九郎、布袋市右衛門、安の平兵衛、極印千右衛門。これが後に白波五人男のモデルになりました。
仲直りにと薩摩の侍たちと浪速五人男を店に連れて帰ってもてなそうといたしますが、出すものがございません。機転を利かせた女房のお谷さんが、先ほどのヌルマのつけ焼きを自分の手料理といつわって出します。雁金文七もヌルマと知って顔色を変えますが、ここで食わねば男がすたると、強がって口へ入れます。するとこれがうまい。それもそのはず、実は今でいうウナギの蒲焼でございます。「うまいなお内儀(奥さん)」と言ったのが、薩摩の侍には「うまいなウナギ」に聞こえたというので、それから「ヌルマ」が「ウナギ」と名前を変えました。そして、菱又がはじめてヌルマを食べられるようにしたので、魚へんに菱又(日四又)で「鰻」という字ができあがりました。それを初めてお客に出したのが女房のお谷さん、そこで、店のあった辺りを「鰻谷」というようなったというわけでございます。
あんまりアホらしい話なんで、昔でも橘ノ円都師匠くらいしかやらなんだ。今は笑福亭生喬さんが持ちネタにしてはります。
しかし、鰻谷がなんでそういう名前かというと、実のところよう分からんらしい。『摂陽奇観』に「往古船場の地形は當代のごとく平地にあらず。所どころに谷のごとく高低ありしにや、今の道修町近世まで道修谷といふ名存せり。また島の内の鰻谷も舊き名にして谷間のごとき所にてありしぞと。」とあるんで、恐らく「鰻ように細長い谷間」或いは「鰻がようさん取れる谷間」ということやったんやないかと言われてます。
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