カテゴリー別アーカイブ: 落語

【歳時記と落語】商売繁盛で笹持ってこい!

大阪では、1月9日から11日までは戎祭りです。9日が宵戎、10日は十日戎、11日は残り福ですな。堀川戎、今宮戎、西宮戎あたりがえらい人出ですが、大阪というと何というても今宮戎です。この大阪を代表する戎さん、耳が遠いという話があります。それで、願い事をする人は社殿の裏をどんどんと叩いたというんですな。何でこんな話になったかというと、戎さんは大阪に背中をむけてはる。本殿はそもそも南向きなんで、別に他意があるわけやないんですが、それがこちらを向いてくれヘンということで、「聞こえん人」やと言うた。それが耳が聞こえんと言うことになったというんです。
この十日戎が舞台になっているが、「蜆売り」です。大阪ではあんまりやる人はありませんが。桂福團治師匠が持ちネタにしてはります。

寒い中、まだ幼さの残る男の子が蜆を売っております。ある家の前へ行って声をかけますが、中にいる若い衆は買うてはくれません。そこへ親方が戻って参りまして、すっくり買うてくれる。そしてなんで蜆を売っているのかと尋ねますと、男の子が語ります。
父親はおらんで、母親は目が見えん。姉は旦那と商売をしておったんやが、上手いこといかんと借金がかさみ、謝金取りが毎日やってくる。いよいよ戎橋の上から身を投げようとしたとき、偶々通りかかった人が、金を渡してくれたんでたすかったんやが、近所に泥棒が入ったことがあって、急に金回りがようなったのがおかしいというので旦那さんは引っ立てられていって姉さんは病気になって寝込んでしもうた。それで、男の子が蜆を売って暮らしているというんです。
固持する男の子に親方は、母親と姉さんの治療代やというて過分なお金を渡します。
深々と頭をさげて、男の子はて天秤棒を担いで帰ります。
親方が感心していると、若いもんがが腹が立ってきたと言います。
「どうしたんじゃ」
「いや、その戎橋の橋の上でお金をやった人、何で名前を名乗ってやらなんだんかいな、と思いましてな。親方、その年の十二月の十五日でしたか、確か集金に行った帰りがけ、戎橋にさしかかった時でしたかなぁ、若い男女が飛び込もとしてましたがな。うしろからそうっと行って助けて、ぎょうさんお金をやって、名前も名乗らんと帰った。親方、あんたでっせ」
親方も思い出しました。よかれと思ったことが裏目にでてしもうた。そしてその弟にまた恵んでやった。
「あの時に助けてやったんが、俺としてはあの子に甲斐があったというものかなあ? あの子に対して、甲斐があったんかいなあ?」
「何を言うてんねん親方、甲斐(貝)があるさかいシジミ売れてまんねや」

四代目桂文我師匠の「復活珍品上方落語選集」では、この親方は、大阪の南堀江の中川清之助という土地の顔役になっております。十手をを預かる一方で、やくざな稼業もしている。しかし悪い人ではのうて、金が余っているようなところから取り立てて、恵まれない人に施しているという人です。まあ「侠客」と言われるようなお方ですな。由来はちょっとわかりません。

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【歳時記と落語】冬至に食べる7つの開運食

12月22日は冬至です。二十四節気の中でも重要な節気の一つです。暦では、冬至があるのが十一月と定められています。
一年で一番日が短い日と言われますが、実際にそうなるかどうかは、暦と天体の動きの関係で絶対とはいえんようですが、古く四書五経の一つ『 尚 書』の「 堯 典 」の中にも 「 日 短 」と書かれております。また「冬至一陽生(冬至は一陽生ず)」ともいい、陰の気が極まり、陽の気が生じ始めるときとされております。「一陽来復」とも言いますな。つまり冬の極まりということは、ここからは段々春に向かっていくという訳ですな。最も実際はまだまだ寒さは厳しくなっていきますが。
北宋の蘇軾の「冬至日独遊吉祥寺(冬至の日、独り吉祥寺に遊ぶ)」にも、そんなことがうかがえます。

井底微陽回未回  井底の微陽 回(めぐ)るや未だ回らざるや
蕭蕭寒雨湿枯荄  蕭蕭たる寒雨 枯荄(こがい)を湿す
何人更似蘇夫子  何人か更に似たる 蘇夫子に
不是花時肯独来  是れ花時ならざるに 肯て独り来たる

この冬至には昔から、カボチャを食べるという風習がありますな。カボチャは保存が利きますんで、昔は冬の貴重な栄養源やったんです。実際にかぼちゃにはカロテンが豊富で、体内ではビタミンに変わります。ちゃんと理にかなっているわけですな。
もう一つ、ゆず湯に入るというのもありますな。無病息災を祈るもんですが、これも実際に血行がよくなり、よう身体が温まりますから、単なるまじないという訳ではないようです。
それから、今はあんまりやりませんが、「ん」のつく食べもんを食べるというのがあります。「運」が着くようにと言うわけですな。この「ん」のつくもんというのが七つあるそうで、「なんきん」「にんじん」「れんこん」「ぎんなん」「きんかん」「かんてん」「うどん」やそうです。全部「ん」が二つつく。「うどん」は一つやとおっしゃるかもしれまへんが、漢字で書くと「饂飩(うんどん)」ですな。
この「ん」のつくもんが出てくるのが、「ん廻し」別名「田楽喰い」ですな。

まあ、これは四月に木の芽のところで紹介しましたな。噺の中では特に季節がうかがえるようなところもありませんので、特に冬至という訳でもない。
そこで今回は「うどん」に関係した噺をひとつ。

寒い中をうどん屋が商売しております。屋台というても今のような立派もんやない、天秤棒の両側に縦長の行李がついているようなもんです。
酔っ払いに絡まれたりで、なかなか商売になりまへん。
ある町内で、男に呼びかけられます。仲間内で集まって札の一つもやってるんやが、ちょっと腹が減ったんで、うどんでも食おうかというわけですな。しかし、まああんまり人に誇れるようなことをしているわけでもないので、使いのもんも小さい声で注文いたしまして、うどん屋にも大きな声はださんようにと言いつけます。
十人分売れて気をよくしたうどん屋が商家の前まで来ますと、また小さい声でお呼びがかかる。またようさん売れるかと思うたら、一杯だけ。味見かも分からんと希望を持って、うどんを作って持って行きます。
「お待ちどぉさんで」
「できたか? おおきに、ありがと。うまそや。ええダシ使こてるなあ。……美味かった。ごっつぉさん」
「お粗末さまでした」
「うどん屋、また明日もおいでや」
「ありがとさんで」
「うどん屋」
「へぇ?」
「お前も、風邪ひぃてんのんか?」

故・桂吉朝師匠と、故・桂枝雀師匠の一席をお楽しみください。

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【歳時記と落語】日本のォォ積雪はァァ世界一ィィィ。颪もやっかいです。

12月に入りました。7日は「大雪(たいせつ)」、雪がいよいよ降り重なるという時期で、鰤など冬を代表する魚も旬を迎えます。先日から日本でも寒さが本格化してきましたが、南国・台湾にも11月末から大寒波が到来、、普段は最高気温が20度を上回る台湾で、日中15度前後、夜間は10度を下回る冷え込みになり、30人を越える死者が出たそうです。
大雪というと、日本で一番の積雪を記録したのがどこか知ってはりますか。
北海道? いえ、北海道は寒さは厳しいんですが、積雪は思ったほどやないんです。
新潟? 確かに毎年の積雪は大変なもんです。
富山? 立山の雪壁の中をバスが走る光景は有名ですな。

一般的に、日本海側の北陸・東北地方は豪雪地帯でっさかいね。このあたりやと思うのが当然ですわな。

ところが、実は、滋賀県なんです。琵琶湖の東岸に聳える「伊吹山」、ここで1927年2月14日に記録された1182cmが観測史上世界一の積雪です。
滋賀県は盆地で、この伊吹山をはじめ、比良山や比叡山などに周りを囲まれております。そこから吹き下ろす強風で、予想事情に寒いんです。「ひこにゃん」でお馴染みの彦根市も、伊吹山からの「伊吹颪」で寒く、昔は数十センチの積雪は普通やったそうです。
同じように盆地の京都も底冷えは有名ですな。
比良山から琵琶湖に吹き下ろす「比良颪」のおかげで、JR湖西線は防風柵が設けられておりますが、よう停まります。1941年4月には、旧制第四高等学校の漕艇部が遭難して死者11名が出る水難事故も起こってます。
もう少し南の比叡山からも「比叡颪」が吹き下ろしてきます。琵琶湖だけやのうて、反対側の京都へも吹き下ろします。
「足摺岬」で知られる作家・田宮虎彦の作品にも「比叡おろし」がありますし、小林啓子の歌も有名ですな。
この「比叡颪」も琵琶湖では悪さをした。麓が浜大津、ちょうど対岸が「矢橋」。琵琶湖を渡る矢橋船が出るところです。
さて、京のさる商家に清吉という若旦那がおりました。よう落語に出てくる道楽息子やのうて、頭もええし、才覚もある。ところが玉に瑕やというのが、えらい悋気深いたちなんですな。嫁さんでももろうたらましに成るかと思うたら、嫁さんが被害者になるだけ。そこで、理で諭したら、なおるんやないかというので檀那寺へ預けることにいたします。
一年して帰ってくると、元来頭のええひとですから、すっかり人間ができあがった。
ところが、それに安心したのか、おとっつぁんがコロっと逝ってしまいます。懇ろに弔いをいたしまして、更に一年、勉強をいたします。すると今度は、檀那寺の和尚さんが病の床に伏してしまいます。
和尚さんは枕元へ清吉をお呼びになった。
自分にはたった一つの心残りがある。それが清吉。八分かた仕上がってるが、まだ二分ほど足らん。これでは仏造って眼入ず。このままでは成仏できない。そこで、悋気が起きた時、困ったことができた時の為に「指南書」を書いた。これをよう守るように。
そうおっしゃって和尚は大往生いたします。
ある日のこと、草津のおじのところへ、五十両という大金を届ける用事ができた。初めての旅で大金を持ち歩いているんですから、道行く人がみな盗人に見える。しかも、方向が同じやという男が声をかけてきた。盗人に目をつけられたか、困ったな、と思ったところで思い出したのが、和尚の指南書。
開けてみますと、「旅は道連れ、世は情け」と書いてある。教えに従うて、二人連れになって浜大津までやってまいります。ここから船が出ておりまして、船頭が客を呼んでおります。道連れの男が乗っていこうと誘います。
指南書には、「急がば回れ」。船を断って陸伝いでやってまいりますと、大雨が降ってきます。
「急がずば濡れざらましを、旅人のあとより晴るる野路の村雨」
大したもんで、指南書通りにゆっくりしていると、すっと晴れてきます。
夕方過ぎまして、おじさんのところに着きまして、無事五十両を渡します。陸路できたことを話しますと、
「よう船に乗らんかったこっちゃ。最前の大雨は比叡颪という奴や。矢橋船が三艘転覆してしもうてな、だれもたすからなんだちゅうはなしや」
これを聞いて清吉、浜大津で別れた男のことを思い出して、見に行きますと、やっぱり亡骸になっておりました。
矢橋船の話が伝わりますと、嫁さんが心配するやろうと、泊まっていけというおじの誘いを断って京へ帰ります。帰りがけに土産に「うばが餅」を買うていきます。
夜更けに帰り着いてみますと、明かりが付いている。そっと中を覗いてみると、頭が二つ。片一方はまだらはげ。さては間男でもしよったか、と思いますが、念のために指南書を開けてみますと、
「なる堪忍は誰もする ならぬ堪忍、するが堪忍」
それは殺生や、和尚も間違えるかもわからんともう一度開けてみますと、今度は、
「七度尋ねて人を疑え」
中に入って問い詰めてみますと、嫁の母親です。歳をとったせいで髪が抜けてきてまだらになったんですな。
翌朝、義母に詫びを言うて、三人で土産の「うばが餅」を食べようとすると、変な臭いがする。昨日買うたもんが腐ってるはずはないんやがな、おかしいなと思うて、指南書を開けてみますと、
「 うまいもんは宵に食え」

この草津名物「うばが餅」、今も草津にお店がございます。創業四百年を越えるんやそうです。同じように古うて落語に縁のあるお店が、同じ滋賀県にございます。もぐさの製造販売を行っている「亀屋佐京」です。

江州伊吹山のほとり
柏原 本家亀屋左京
薬もぐさ よろし

今で言うCMを作って、これが江戸まで聞こえたといいますな。

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【歳時記と落語】ヌンチャクの真実。ブルース・リーと稽古事

今週は節気としては、特にないんで、まあ趣味に走ってお話をしたいと思います。
11月27日は、ブルース・リーこと李小龍の誕生日です。生きていたら73才ということになります。亡くなったのは1973年7月20日、今年は没後40年ということで、色々とイベントもありましたが、香港文化博物館では、今年から五年間特別展を開催しております。
世界中に「カンフー映画」ブームを巻き起こした李小龍ですが、いわゆる「カンフー映画」の主演、ブームの原動力となったのは、香港帰国後のたった四作品しかありません。『ドラゴン危機一発』(唐山大兄)、『ドラゴン怒りの鉄拳』(精武門)、『ドラゴンへの道』(猛龍過江)、『燃えよドラゴン』(龍争虎闘)です。彼自身のキャリアからすれば、仕事のごく一部ということになります。
それだけに、一作一作のインパクトがどれだけ大きかったかというのが分かろうかと思います。

映画の中で、李小龍を印象付けているのが、「怪鳥音」と呼ばれる独特の叫び声と、「ヌンチャク」アクションでしょう。
画期的アクション映画が彼のキャリアのごく一部ということと、その大きな要素である、この「ヌンチャク」アクションは不可分の関係にあります。
それは彼の武術家としてのキャリアです。
李小龍が創始した「截拳道」は今日でも継承されていますし、総合格闘技の源流とも言われています。しかし香港帰国につながるアメリカ映画、TV界での彼のキャリアは、「截拳道」を創始した武術家としての認知から始まっているのです。むしろ、アメリカでは武術家、哲学家としての方が評価が高いともいえます。

そして、この武術家としてのキャリアが、「ヌンチャク」アクションに大きく影響してくるのです。
李小龍は、アクション・スターとしてを注目されるようになるのは、1966年にTVドラマ「グリーン・ホーネット」にカトー(ケイトー)役で出演してからです(リメイク版では周杰倫が演じました。それが気に入らなかったのが甄子丹。彼は、自身の映画「精武風雲」の中でカトーそっくりの衣装で登場します)。このドラマの中で、彼はすでに「ヌンチャク」アクションを披露しています。つまり、武術家時代に、「ヌンチャク」を身に着けていた、ということになります。
李小龍に「ヌンチャク」を教えた人物、それは日系の空手家・落合秀彦氏でした。ジャーナリストの落合信彦氏の実兄です。李小龍と落合氏が出会ったのは、1960年代の半ば、ロサンジェルスのYMCAだったと言われています。落合氏はアメリカの格闘家の殿堂に名が列せられているほどで、アメリカの空手界に大きな足跡を残した偉大な格闘家です。
ほぼ同じ頃、ロスにはもう一人偉大な日本人空手家がいました。1965年に渡米した糸東流の出村文男氏です。彼もブルース・リーとは親交があり、古流などを教えたようです。彼がヌンチャクを教えたという説もありますが、アメリカでは落合秀彦氏という説が一般的です。
いずれにしても、沖縄唐手の武器である「ヌンチャク」の技法を、李小龍は、格闘家時代に習得していましたわけですが、彼の「ヌンチャク」アクションは、沖縄唐手のそれとは大きく異なっています。
それは、「ヌンチャク」と同様の武器は、フィリピン武術「カリ・エスクリマ」でも使われており、李小龍はこのフィリピン武術の技法を取り入れて、独自の「ヌンチャク」アクションを作り上げたのです。
そしてここにも、彼の武術家としてのキャリアが大きくかかわっています。彼の高弟にして盟友、李直系の「截拳道」を今に伝える武術家・ダン・イノサントの存在です。李小龍の死後に大幅な追加撮影の末に完成を見た「死亡遊戯」にもカリの達人として出演しています。フィリピン武術の達人であるイノサントから、その技法を学んだことは疑いようもありません。

さて、日本が誇る和製ドラゴンこと倉田保昭氏が、李小龍にヌンチャクを教えたという説がありますがこれは、今述べたように誤りで、倉田氏が李小龍と初めてあったのは、『ドラゴン怒りの鉄拳』(精武門)撮影中の1971年だということでも、それは明らかです。倉田氏自身が語っているところでも、自身のヌンチャクを李にプレゼントし、それを李が映画の中で使ったというもので、「ヌンチャク」を教えたとは言ってはいません。武術談義が弾み、話が「ヌンチャク」に及んだときに、李が今手元にないというので、偶々持ってきていた倉田氏が、じゃあ俺のをあげるよ、と言った、というようなことのようです。

不世出の武術家にしてアクションスター、李小龍は少年時代に葉問より詠春拳を学び、その後様々な武術・格闘技を学び、自らの肉体を通し、「以無法為有法 以無限為有限」という哲学の元に統合して「截拳道」を作り上げました。その過程の象徴が、彼を特徴付ける「ヌンチャク」アクションであると言ってもいいでしょう。
天才といっていい李小龍でも、はじめはやはり学ばなければ何もできなかったわけで、習い事、稽古というのは、大切なものです。

現在も習い事は老若男女を問わず盛んですが、実は日本の江戸時代というのは大人の習い事が盛んだった時代でもあります。余裕の有る商人くらいやと、ちょっと風流に短歌や俳句、連歌なんぞを楽しみました。文楽の語りである浄瑠璃をやるてなことも流行りました。「寝床」「軒付け」「猫の忠信」なんかには浄瑠璃が出てきます。庶民でも手軽に習えるというたら、小唄、踊り、常磐津、三味線で、関係しますんでまとめて教えている稽古屋なんてもんがあちこちにあったようです。

さて、ここにおりました我々同様という男、町の甚兵衛さんのところにやってきます。女にもてるにはという話になります。もてる条件として昔から言われるのが、「一見え、二男、三金」。今で言うと、センスがよくてイケメンでヒルズ族でというわけですが、残念ながらどれも当てはまりません。そこで甚兵衛さんが進めるのが「四芸」、なんぞ芸でもできたらもてるかもわからんというわけです。
早速男は、甚兵衛さんの紹介で横町の稽古屋へ。ちょうど女の子が稽古しているところ、外からのぞいて散々茶々をいれます。女の子に「腰を折んなはれ(腰をおとしなさい)」というのを聞いて、表の格子を折ってしまいまして、「甚兵衛はんの紹介で今日からあんたの手下や」と上がりこみます。
まずは、みなと一緒に女の子の稽古を見なはれ、ということで男を座らせまして、お師匠はんは稽古の続きをいたしますが、女の子がえらい笑い出す。見ると、男が鉄瓶の上に草履を乗せている。来る途中で立小便をして濡れたのを乾かしておるんですな。
気をとりなおしまして、次の子の稽古を。すると袂から芋が三つ出てまいります。来る途中でこうたもんですな。お師匠はんが預かって、踊りの続きを、すると突然女の子が泣き出します。男が、芋を二つも食べてしもうたんです。
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それで、まず男に稽古をということになります。
「あんた、何のお稽古がよろしいの?」
「そうでんなあ、なんせ色事が派手にできるようなお稽古がよろしいな」
「色事ができるようなお稽古て、うちではそんな稽古せえしまへん」
「何ででんねん?」
「昔から言いまっしゃろ。『色は指南のほか』でおます」

今ではこのサゲも分かりにくうなりました。色事というのは、何かと人の分別を狂わせて、常識どおりにはいかんようになってしまう。昔も今もそれはかわりまへんが、それを昔は「色は思案のほか」と言うたんですな。

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【歳時記と落語】寒くなってきますと鍋が恋しくなります。「鮭」の毒にはご用心。

そろそろ北の方から初雪の便りが聞かれるようになりました。22日は「小雪(しょうせつ)」です。ちらほらと雪が降るようになり、寒さが日ごとに増していく、そんなような意味やそうです。公孫樹や柑橘類も色づいています。
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同じ「小雪」でも「こゆき」と読みますと、これは積もるか積もらんかというような雪をいう気象用語になります。
 翌23日は「勤労感謝の日」。これは元々は宮中行事の「新嘗祭」でした。「新嘗祭」は旧暦11月の2回目の卯の日に行われておったんですが、1873年に太陽暦が導入されたとき、その日が翌年1月になってしまうということで、新暦の11月にすることにしたんやそうです。その年の2回目の卯の日が、たまたま11月23日やったということで、以降日を固定したんですが、この日付自体にはあんまり意味はないんですな。
 寒うなってきますと、鍋が恋しくなってきますが、大阪あたりで鍋といいますと、なんと言うても河豚ですな。しかし、海に住んでおる河豚やのになんで「河豚」と書くかというと、中国の河豚は川を遡上するんですな。中には長江河口から1200キロも上流の漢口あたりまで遡上する種類もあるやそうです。古くは「鮭」とも書いた。「鮭」はサケやないかと思いますが、サケは元来は魚偏に生と書いた。それがいつの間にか間違うて「鮭」の字が使われるようになったと、すでに『倭名類聚抄』に見えています。青木正児の「酒の肴・抱樽酒話」に老漢学者の話として、医者に「知人より鮭を貰ったが、食べても大丈夫か」と手紙で尋ね、大丈夫との返事だったので食べたら、あたっってしまった。老漢学者は「鮭」を「河豚」の意味で使っていた、という話があります。
 ここにもうかがえるように、昔から河豚というのはその毒が恐れられました。「河豚は食いたし命は惜しし」などという古い言葉もありますが、食通として知られた蘇東坡は、河豚を「一死に値する」とまで評していますし、北大路魯山人も「河豚食わぬ非常識」という随筆を残しています。
 しかし、なんだかんだというて、うまいもんの誘惑には勝てんのが人間の性というやつでしょうな。昔は「測候所、測候所」とまじないを言うて食べたらしい。「測候所」今の気象台ですな。天気予報があたらんというのでまじないにしたらしい。
 ある男が、温泉旅行のお供の土産を持って、日ごろ世話になっている旦さんのところに挨拶行きますと、鍋の用意がしてある。お酒の用意もしてある。ご馳走になれると聞いて喜びますが、これが河豚鍋。
「さよかフグですか、なるほど……。わたしちょっと家に用事思い出したまんで、一旦失礼さしていただいて……」
「これ、どこ行くねん。遠慮せんとやったらどや」
「河豚と伺いますと、ちょっとこのご辞退をさしていただきます。まだちょっと時期が早いよぉに思います」
「そんなことあるかいな。フグはこれからが時期やがな」
「そやおまへんのんで。わたしのせがれも、今度学校卒業いたしまして、旦さんのお計らいで就職が決まっとります。これが三、四年も経ちますというと、生活の方も安定してくるやろと思われますんで、割れ鍋にも閉じブタ、てなこと言いますんで、適当な嫁を持たして、でまあ孫の顔の二、三人も見て、ああ、生きてて良かったなあ、とこない思てから頂戴さしていただきます」
「そんな時分まで煮いてられへんがな」
 臆病な男もあったもんですが、実はこの旦さんも河豚は初めてで気が乗らん。そこで誰ぞ来たら、まず食べさせてみて、大丈夫やということになったら食べようという算段です。
 それやったら、二人同時に食べまひょうという話になりますが、どっちも相手より先に食べるのはいやでっさかいに、話は進みまへん。
 すると、何や奥の方がちょっと騒がしなった。聞くとオコモさん、乞食ですな、これがお余り貰いにやって来たといいます。
「お余りてなもんお前……、あるやないか!ちょっと待たしとき。オコモが来てるっちゅうさかいに、これ食べさして、大丈夫やと見極めた上で我々が食べるというのはどや」
「なるほど。さすが旦さん、腹黒い」
 で、男がオコモの後をつけまして様子を伺います。横町のお堂に座り込んだのを見届けると、町内を一周、時をみはかろうて、戻ってまいりますと、河豚を食べて体が温まったせいか、気もよさそうに居眠りをしてる。
「居眠りなあ。そのまま息引き取ってはるてなことはないやろな」
「そら大丈夫だ。寝言言うとりましたんで」「
「寝言?」
「えぇ。『ん~ん、しびれるぅ~』嘘、嘘、冗談でんがな。気持ちのよさそうな顔して寝とりました」
 これは大丈夫やということで、今度は二人して争うようにして鍋を平らげ、最後は雑炊にして、もう満腹。
すると、さっきのオコモがまたやってきます。
「あのう、旦さん方」
「何じゃこいつ、厚かましいやっちゃ、庭から回って来てるがな。何や?」
「もうみなお召し上がりになりましたかいなぁ?」
「この通りスックリ食べてしもたがな」
「ああ、さよか。ほな、わたいも、安心してこれからゆっくり頂戴をいたします」
オコモの方が一枚上手やったというお話です。
河豚の調理は今は免許が要りますんで、お店で食べる分にはめったのことではあったたりはいたしません。死亡事故も毎年何件かありますが、これは殆ど素人調理が原因やそうです。

「天王寺詣り」で四天王寺参詣

先日、四天王寺さんへ行く機会があったので、いくつか写真を撮ってきました。
このブログでは、落語とくに上方落語を中心に扱っていますので、ここは「天王寺詣り」の噺を交えながら、ご紹介したいと思います。
「天王寺詣り」というと、六代目笑福亭松鶴が有名ですが、その原型は五代目笑福亭松鶴のものです。

死んだ飼い犬の引導鐘を撞いてやりたいという男に連れられて、ご隠居さんが案内役でやってきます。合邦が辻から一心寺、向かいが安井の天神さん(安井神社)、という道順ですので、西からやってきたことになります。そして正面に見えてきますのが、四天王寺の大鳥居です。

石の鳥居

「マア立派な鳥居でやすな」
「これを日本三鳥居と言うね」
「ヘエ日本三鳥居てなんでやす」
「大和吉野にあるのが、金の鳥居、芸州安芸の宮島にあるのが楠の鳥居、天王寺石の鳥居とあわせて、これで日本三鳥居と言うね」

(五代目笑福亭松鶴『上方落語100選3』。以下同じ)

この石の鳥居には扁額が掲げられています。片側の縁がないので男はチリトリと言いますが。
ご隠居さんが、中に何と書いてあるかと尋ねますが、男は「四字ずつ書いて、四四の十六字」と答える始末。

「釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心」

ソレ、釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心じゃ」
「何にも分からん、ねこの糞じゃ」
「コレ、いらんことを言いな」
「どなたが書いたんでやす」
「弘法の支え書きと言う」
「鰌汁の中に、入ってあるのん」
「それは、ごんぼのささがきや、誠は、小野道風の自筆やともいう」

今度は視線が下に降りまして、鳥居の根元。カエルが三つ彫ってあると言います。今ではそのような形はまるで分かりません。ちなみに、右側の根元だけ突起が四つついています。その鳥居の根元に左右一対あるのが、通称「ボンボン石」とか「ポンポン石」とか言われるもの。元々は棒でも指したんやないかと思うんですが、穴というか窪みがあります。

「あの石の真ん中に四角な穴がある、石を持ってたたくとぼんぼんと唐金のような音がする、そこへ耳をあてると、わが身寄りの者が、来世で言うてることが、聞こえるのや」

ボンボン石(ポンポン石)

音が聞いてみると、景気のええ呼び込みの声がする。さては死んだ叔父さんが、あの世で手広う商売でもやってるのかと思うたら、実は隣の茶店の呼び込みです。
続いて、ご隠居が一気に境内を紹介します。

「こちらへおいで、これが西の御茶所、納骨堂に太子念仏堂、引声堂、短声堂、見真大師、お乳母さんというて、乳の出ぬ人はここへ詣る、布袋さんが祭ってある、これが天王寺の西門や」

残念ながら、ここで述べられているものの中で、現在もほぼその場所に再建されているのは、見真大師とお乳母さん、そして最後の西門だけです。

乳布袋尊

布袋さん

見真大師(親鸞聖人旧跡と像)

しかし、元禄期の「新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図」を見ると、鳥居と西門の間にいくつかの建物が見え、「たんせい堂」「いんせいたう」「太子いんたう」の文字が見えます。
四天王寺旧伽藍

そのほかの資料を参考にすると、通りの南に西から「大師堂(恐らく太子念仏堂)」、「茶屋」「引声堂」、北側に「短声堂」と「納骨堂」があったようです。「短声堂」の跡は、四天王寺中学・高等学校の正門の脇にあります。

右が今の納骨堂。左は阿弥陀堂

納骨堂は現在はもっと南に阿弥陀堂と並んで立っています。

そして、西門をくぐります。

西門

この西門には特徴が有ります。転法輪、噺の中では「輪宝」と呼ばれていますが、これが内の柱に一つずつ、計四つついています。

輪宝(転法輪)

「天王寺の寺内は天竺の形をとったもの、手洗水がない、水という字が崩して車にしてある、三度回すと、手を洗ろうたも、同然や」

噺の中ではそう説明されていますが、仏の法を説くことをいうので心が清らかになるというのが本来の意です。
そもそも、今では手水は境内の彼方此方にあります。
西門を入りますと、松が植わっています。これが義経鎧掛けの松です。

義経鎧かけ松

「コレが、義経の鎧掛松や、コレが経堂、経文ばかりで詰まってあるのや、コレが金堂、この格子の中をのぞいて見なはれ」
「何やチョン髷に結うた親父さんが上下着て座ってますな」
「アレが淡太郎の木像や」
「コレだすな、万さんとこの子取りよったのは」
「ナニが」
「ガタロの極道だすか」
「淡路屋太郎兵衛という、紙屑問屋の旦那や、天王寺が大火で焼けた時、五重の塔を建立しなはった、その木像が残してあるのや」

経堂は現在はありません。西門からまっすぐに西重門へ向かう道の北にあったらしい。

境内の礎石

経堂は輪蔵ともいいます。礎石だけは残ってます。その関係かしりまへんが、今は傍に納経所があります。
この次の金堂は、西重門をくぐった先にあります。噺ではすぐそばのように言うてますが、ちょっと離れてます。

金堂

今の金堂、というか伽藍は戦後に再建されたもので、江戸時代に再建された伽藍は台風で壊れたり戦災で焼けたりてしまいました。木像も今はありません。ただ、淡路屋太郎兵衛の墓は中央区の正法寺にあります。
で、男はここで、「その五重塔ちゅうのはどこにおまんねん」と尋ねます。当然、金堂のすぐ前にあるわけですが、男はそれを五重の塔とは思わなかったんです。

五重の塔

「なんでこれ五重の塔と言いますね」
「五ツ重なってあるから、五重の塔や」
「ひイふりみイよオ、四ツしかおまへん」
「上にもう一ツあるがな」
「あの蓋とも五重だすか」
「重箱みたいにいいないな」

確かに、重箱というのは二の重やとか三ぼ重やとか言いますが、蓋は数えませんはな。
勿論今の五重の塔は戦後に再建されたもんですが、一番上には仏舎利が納められております。そもそもお寺の塔というのはその為に建てられるもんでっさかいにね。拝観時間中はそこまで登ることができます。
噺の方では、この後に伽藍中の案内、そして南に抜けて、再び境内の散策が始まります。ここが駆け足にポンポンと喋っていくところですが、実際に歩くと結構な距離です。

「こちらへお出で、これが竜の井戸、天王寺の境内は池であった、竜が主、聖徳太子がこの井戸へ符じ込んでしもたので、竜の井という、これが回廊や、南門、仁王さんの立っているのはここや、西に見えるが神子さん、南のお茶所、虎の門、お太子さん、前にあるのは夫婦竹、太子引導鐘、猫の門、左甚五郎作で、大晦日の晩にはこの猫が泣くという、用明殿、指月庵、聖徳太子十六歳のお像、亀井水、経木流す所や、たらりやの橋、俗に巻物の橋、向うに見える小さいお堂が丑さんで、前にあるのが瓢たんの池、東に見えるが東門、内らにあるが釘無堂、こちらが本坊、足形の石鏡の池に、伶人の舞いの台や」

これ、何やその辺をまとめて紹介しているようですが、実際は境内を大体四分の三周ぐらいしてます。
まず、「竜の井戸」ですが、これは今も西重門入ったちょっと北のところにあります。せやから噺はちょっと後にもっどてるのやね。回廊は伽藍の周囲ですわな。

回廊(これは東側)

噺ではコレを南へ下がって、南門というてますが伽藍配置では「中門」、現在は「仁王門」というてるところから、伽藍の外へ出てます。今はこの「仁王門」からは出られへんようになってます。

中門(仁王門)。噺では南門と呼んでいる。

万灯院

「紙子さん」というのは「紙子堂」、ほんまは「万灯院」と言います。これは今も同じ所に建ってます。勿論建物は変わってますが。
南の御茶屋、夫婦竹、これは今はありません。御茶屋あたりには今は南休憩所があって、役割をひきついています。「太子引導鐘」は今もありますが、当時とは別の建物です。

南鐘堂(太子引導鐘)

「虎の門」は今も大体同じくらいの所にあります。

寅の門

寅の門のトラ

この虎の門は「お太子さん」つまり「太子堂」の門の一つです。続く「猫の門」もそうです。今は西向きに建っていますが、元々は北向きに建っていました。

猫の門

猫の門のネコ

「用明殿」「指月庵」は「太子堂」の北、今宝物殿があるあたり、あの辺にあった。お太子さんの像も今はそこにはありません。太子堂に収蔵されています。
これが、大体西門のちょうど反対側あたりです。ここから少し北へ歩きますと、「亀井水」。今「亀井堂」と「亀井不動尊」があるあたりです。

亀井堂

噺では、ここで「たらりやの橋」というのがでてくる。しかし、今はあの辺に橋はありません。昔は亀井堂から東の下の池まで水路があったんです。そこにいくつか橋が架かってたらしい。そのうちの一つが「たらりやの橋」。その橋の石が、宝物殿の南に置かれています。説明が書かれていますが、これ実は古墳時代の石棺の蓋やったんです。明治時代にそれが分かってから、橋は架け替えられたようです。

橋の石

「丑さん」というんは「石神堂・牛王尊」です。今は「亀井堂」のすぐ傍にありますが、昔はもっと西側にあったらしい。

牛王堂

その向こうには弁天堂のある「下の池」があります。ここでいう「ひょうたん池」は多分これのことでっしゃろな。

弁財天堂と下の池

その更に向こうにあるのは「東門」です。手前には「伊勢神宮遙拝石」があります。

東門と伊勢神宮遙拝石

「内らにあるのが釘無堂」というてますが、これは本坊の塀の内側にあったからなんです。「釘無堂」というのは、ちょうど弁天堂の北にあった本坊の宝庫のことなんです。
本坊は四天王寺の境内の北東の角一帯が全部そうです。今はその庭には入ることができます。

本坊への門

これで、南から北に上がってきて、東を向いて、西向きに折り返してきたことになります。
この後、五代目の噺では、すぐ足形の石」に行きますが、六代目の噺では、大鐘楼に回っています。
大鐘楼は、六時堂の北西にあったんです。ここには、当時、世界最大の釣鐘があったんです。1903年(明治36)の第五回内国勧業博覧会に併せて、聖徳太子1300年の御遠忌を記念して鋳造されたもんで、高さ7.8メートル、直径4.8メートルもあったそうです。今も四天王寺さんの南参道に「釣鐘まんじゅう」を製造発売するお店がありますが、この大釣鐘を記念して作られたもんです。釣鐘は太平洋戦争の時に供出されていまいましたが、大鐘楼は「英霊堂」となって残っています。

英霊殿(大鐘堂)

そこから南に下がりますと、上の池があります。今は「丸池」というてますが、この北西に「仏足石」があります。これが「足形の石」でしょうから、「鏡の池」というのは「丸池」のことでしょう。

丸池

仏足石

ここから東へとって返しますと、「伶人の舞いの台」、石舞台です。池の上にかかった橋のようになっています

石舞台

この石舞台の所で、男がご隠居さんにおかしなことを聞きます。
「天王寺の蓮池に亀が甲干す、はぜをたべる、引導鐘ごんと撞きや、ホホラノホイてなんだす」
「コレそんなけったいな尋ねかたをしないな、皆がお前の顔を見てるがな、それはここや」
「アア向こうに亀がたんといてます、向処へいきまひょうか」
「向こうへ行かいでも、手を叩くと、皆亀がこちらへ来るがな」

池の亀。親亀の上に子亀が載っている。

こういう流れですんで、いまも亀がようけいてる石舞台の池が「蓮の池」のこのでっしゃろな。今でも手を叩いたら寄ってくるかどうかはしりまへんが、昼間に甲羅を干している亀の姿はのんびりしててよろしいもんです。
噺ではこのあとで境内の賑やかな様子が入りまして、ご隠居が、

「サアこちらへおいで、これが引導鐘や」

というて、漸く北の引導鐘に辿り着きますが、実際には北の引導鐘、「北鐘堂」は亀の池のすぐ南にあります。ここは今でもずっと引導鐘を撞いております。

北鐘堂

ここで、男は死んだ飼い犬のクロの為に引導鐘を撞いてもらいます。
ここまできますと、ちょっと南にさがると、元の西門の前に出てきます。そうしたら、来たのと逆に帰ったらええんです。上手い具合に境内を一周回って帰れる道順になったあるんです。

残念ながら、度重なる災害や戦災を受けたせいで、四天王寺はその殆どが戦後に再建された建物ばっかりです。しかし、重要な建物は大体元の建物と同じような位置に再建しています。ですから、細かいところは合いませんが、今でも「天王寺詣りを観光ガイドに聞きながら境内を回ることは一応できるんです。

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【歳時記と落語】革命の志士山田良政と円朝・円生

11月12日は、中華圏で知らない人はいない孫文の誕生日です。
 辛亥革命の中心人物として、各国を巡って支援を訴えた孫文。中でも日本は彼自身が一時亡命したこともあり、結びつきが強い。梅屋庄吉が有名だが、その他にも多くの人が様々な面で孫文に協力していました。中でも、山田良政は、中国革命における日本人の最初の犠牲として知られています。
 山田は、陸羯南(くが かつなん)に勧められ中国語を学び、上海で働きますが日清戦争には職を辞して陸軍通訳官として従軍しました。その後、海軍少佐・滝川具和の知遇を得、滝川を頼って北京の日本大使館付の海軍省嘱託職員という身分で調査諜報活動にあたりました。
 翌年、戊戌の政変が失敗に終わると、政変の中心人物である梁啓超や王照の日本への亡命を手助けしました。その縁から、1899年に日本へ帰国した山田の元を孫文が訪れます。協力を約束した山田は、1900年に南京同文書院の教授兼幹事として南京へ渡ると、革命の準備に関わり、10月6日に恵州での武装蜂起が起こると、孫文から依頼されて陣営に赴きますが、戦況はすでに劣勢となっており撤退を余儀なくされました。そして10月22日、撤退中に命を落とします。戦死したとも捕らえられ処刑されたとも言われます。孫文も遺体を探させたと言いますが、遂に見つからなかったそうです。
 1913年、革命を成功させ中華民国を建国した孫文が来日、東京府下谷区谷中(現、東京都台東区谷中)の全生庵に山田の慰霊碑を建てました。
 この全生庵、山岡鉄舟が建立した寺ですが、実は落語とも関わりが深く、山田の慰霊碑の隣には怪談で有名な三遊亭圓朝の墓が、そして初代から四代目までの三遊亭圓生の合祀墓があります。そして、圓朝ゆかりの幽霊画コレクションでも知られています。
 しかし、ここで圓朝の幽霊噺というのはあまりに季節はずれですんで、圓朝作と言われる冬の噺を一席。
 江戸から身延山へ参詣に行った男、帰りに大雪にあって道に迷うてしまいます。山中の一軒家にたどり着き、一夜の宿を求めます。出てきたのは鄙には艶な年増。ところが、喉から襟元にかけて大きなアザがある。
 聞いてみると、元は吉原の遊女で、アザは心中をし損ねた時の傷だという。
 体も冷えているだろうと、お熊は男に卵酒を作る。男は疲れていたせいか、いくらも飲まないうちに眠気を催し、別間に床を取ってもらって横になる。
 お熊が薪を取りに出ている間に、入れ違いに帰ってきたのが亭主。残っていた卵酒をすっかり飲み干すと、苦しみだした。お熊は、男を殺して身包み剥ごうと卵酒には毒を入れておったんです。
 これを聞いた男は、たまたま持っていた小室山の毒消しの護符を雪で飲み込み、身体がきいてくるとそっと逃げ出した。
 そころが、たちまち見つかった。
 鉄砲を手にしたお熊に追われ、男は「南無妙法蓮華経」と唱えながら逃げます。絶壁に追い詰められて、下を見ますと、増水した鰍沢(富士川)の流れにいかだが見えた。滑り落ちていかだに乗りますが、流れだしや岩にぶつかってバラバラになった。一本の材木につかまって「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と必死に唱えます。崖の上から、お熊が男の胸元に狙いを定めます。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
お題目を唱えていると、銃声一発。
弾は、男のまげをかすめて後ろの岩に「カチィーン」と命中した。
「ああ、この大難を逃れたのもご始祖さまの御利益。お材木((お題目)で助かった」

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【歳時記と落語】冬になりますと風邪が心配です。

11月7日は立冬です。暦の上ではここからが冬ということになります。とはいえ、ようやく冷え込んできたという感じで、まだまだ冬本番には遠いですな。そもそも旧暦の季節の変わり目というのは、その兆しの頃になっているふしがあります。
 その季節の変わり目、冬の到来を告げるモンといいますと、これは「木枯らし」ということになりますやろな。「木枯らし」は「凩」とも書きます。木を枯らす風という思いを込めた字ですな。
 近畿地方ではこの4日に「木枯らし1号」が吹いたそうですな。今年は妙に暖かい日が続くと思うてたら、やっぱり昨年よりも6日遅かったんやとか。
 この「木枯らし」、気象庁の方では「10月半ばから11月末にかけて西高東低の冬型の気圧配置になった時に吹く、風速8メートル以上の北よりの風」という風に決めたあるんやそうですな。最初に吹いたのんが「木枯らし1号」。ということは、「2号」や「3号」もあるんやろうと思いますが、発表はないんやそうです。
 こうして寒うなってきますと、風邪の流行が心配ですな。流行性感冒てなことをいいますが、こちらは今は「インフルエンザ」と呼ばれております。いわゆる「風邪」というのは、「鼻かぜ」やとか「のどかぜ」やとかいうもんです。難しう言うと、「ライノウイルス」「アデノウイルス」なんぞというウイルスが原因なんやそうです。「インフルエンザ」は言うまでものう「インフルエンザウイルス」が原因です。症状の激しさには差はありますが、まあ昔は区別しておらなんだ。
 スペイン風邪やとか、大きな被害を出したんはインフルエンザやったそうですが、日本でも昔はインフルエンザで、ようけ人死が出たこともあったんでしょうな。被害が出んようにというので、風邪の神さんをよけるまじないというか儀式があちこちで行われました。「風邪の神送り」というやつです。
 紙で風邪の神さんの人形を作って、お供えもんをして、「どぉぞ風の神さん、ご退散を願います」と言うて、それからそれをみなで川へ運んで行て、放り込んで流してしまうんです。
 昔、大阪のある町内で風邪がはやったんで、風邪の神送りをしようやないかということになった。若い衆が風邪の神送りのための金を集めに町内を回りますが、なかなか思うようにはいきまへん。
 やっとのことで金が集まりますと、長屋の空き家に皆が寄り合いまして、人形を作ったり、お供えを用意したり、酒を買いに走ったり。
 準備が一切整いますと、皆で「どうぞ風邪の神さん、ご退散を願います」と、お祈りをいたしまして、日が暮れになりますと、これを川に流しに行きます。
鉦やら太鼓やら三味線やら持ち出しまして、神さんの人形を先頭に囃したてて川を目指します。
♪か~ぜの神送ろ ♪か~ぜの神送ろ
 ♪か~ぜの神送ろ ♪か~ぜの神送ろ
「さぁ、ここへ放り込め」
 ぼーんと川へ投げ込みますと、後も見んと帰ってきます。
 風邪の神さんの人形は川下へ川下へと流れてまいります。
 もうとっぷり日が暮れてます。すると川面に一艘の船が出ております。
 四つ手網で魚を獲っている、夜網というやつです。
 そうしますと、網にズシッと重たいもんがかかった。
「ゴモクにしてはえらい大きいんじゃが。何やろ?」
 網の中にかかっておりましたのか風邪の神の人形。大勢の人の気持ちが籠もったせいか、人形に精が入って、それへさしてズーッ!
「何じゃい、お前は?」
「わしは風の神じゃ」
「ああ、それで、それで夜網(弱み)につけ込んだか」

 長野県松本市の入山辺地区には、今でも藁で神さんの人形を作って川に流す「貧乏神送りと風邪の神送り」が行われておるそうです。もっとも、2月8日に行われるそうですが。

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【歳時記と落語】HAPPY HALLOWEEN!! といえばカボチャ!

halloween-pumpkin-11286965234H51910月31日は「ハロウィン」です。近年は日本でも大々的にやられるようになってきました。魔女の扮装やらカボチャの「ジャックランタン」やらもすっかりおなじみになりましたな。
元々、「ハロウィン」はアイルランドのケルト人たちが彼らの暦の「大晦日」に行っていた行事に起源を持つもんやそうです。そこに秋の収穫祭やらキリスト教の万聖節(11月1日)の前夜という意味合いやらが習合して出来たもんやそうです。「ハロウィン」という名前も、万聖節(All Hallow’s)の前日(eve)=Hallow+een(eve)からきたんやとも言いますな。
今のような形になったのはアメリカでのことやそうで、宗教的な意味合いはほとんどなくなってます。
ハロウィンのカボチャというと、オレンジ色ですが、これはカボチャの中でもペポカボチャの仲間です。日本で栽培されている食用カボチャの殆どは西洋カボチャで、これは江戸時代末期から明治の初め頃に入ってきたもんです。一方、伝統野菜としての日本カボチャ(東洋カボチャ)があります。これが日本に入って来たんは、江戸時代の初期です。
カボチャは「カンボジア」が語源やといいますが、漢字では「南瓜」と書きます。南から伝わったもんやというのが出てますな。他にも「南京」やとか「唐茄子」やとか言いますが、いずれも南から来た伝わったことに変わりはありせんな。
落語には「唐茄子屋政談」という噺があります。
とある大店の若旦那、放蕩が過ぎて勘当されます。すると、金の切れ目が縁の切れ目、誰も相手に何ぞしてくれまへん。いっそ身投げでも、としているところへやってきた叔父に引き止められて、唐茄子の行商を手伝うことになります。力仕事なんぞしたことがないのでへっぴり腰、担いだ天秤棒に殺されそうになるような有様で、同情されて買ってもらうという次第。売れ残ったカボチャを担いでいくと、吉原が見えてまいりまして、なにやらしんみりとした心持になります。黙って歩いていたことに気がついて、売り声の練習を始めます。
町中に戻り、ある長屋にさしかかったところで、どこか品がある若女房に呼び止められます。カボチャ一つ、ということだが、奥では子どもがお腹を空かせている。話を聞くと元は武士の家だが、今は小間物商いで生活をしているという。しかし、この三ヶ月、旅先の夫からの仕送りが滞っており、三日も何も食べていないという話。
同情した若旦那、売り上げを全部渡して、叔父のところへ帰ってきます。
話を聞いた叔父は、売り上げを誤魔化したのではという思いもあって、若旦那を連れて長屋へ確かめに参ります。
するとなにやら様子がおかしい。長屋のものに話を聞くと、くだんの女房、金を返そうと飛び出したところを因業家主に見つかって、全部取り上げられてしまい、止むに止まれず首をつった。幸い見つけるのが早く、命は取り留めたという。
怒った若旦那、大家の家に殴りこんだ。長屋一同も加勢して大騒ぎ。
この事がお上に知れ、裁きの末、大家はきついお咎めを受け、若旦那は青緡五貫文を褒美に貰い、勘当も許されます。母子は叔父の持っている長屋へ引き取られ、丸くおさまります。
所謂「大岡政談」から出た講談ダネの一つで、人情噺なんでサゲはありません。
褒美の青緡五貫文というのは、落語で褒美を貰うときの決まり文句みたいなもんで、「孝行飴」にも出てきます。一貫文は1000文なんで、銭5000枚ということになりますが、普通一緡百文は銭96枚で、4800枚しかありません。ですが、ばらして使わん限り、一緡96枚で百文として使いましたんで、値打ちは5000文ということになります。

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【歳時記と落語】秋の夜長の仇討ち

10月23日は「霜降」、文字通り霜が降りるということなんですが、今年はまだまだ台風が頑張っていて、なんやいまひとつピリッと空気が引き締まってこんですな。しかし、さすがに日はしっかりみじこなってきました。逆に言うたら夜はなごなった。ついつい夜更かしをしてしまうもんですが、昔は日ぃを決めて、夜明かしをして話をしあうという風習があったらしい。
 それが甲子の日や庚申の日やったんですな。有名な肥前平戸藩主松浦静山の「甲子夜話」の書名は、甲子の夜に書き起こしたことにちなんだもんですが、それもそうした風習が背景にあったんやないかと思います。別に「庚申夜話」という本も残っておるそうです。
 今年は10月21日が庚申、25日が甲子になっております。
 この甲子ないしは庚申の夜話が出てくるのが、「甲子待(庚申待)」です。夜通し話をしていく間に敵討ちの話になっていく。これは5代目古今亭志ん生が得意とした話ですが、元は上方の「宿屋仇」です。
 今、大阪で日本橋(ニッポンバシ)というたら、電化製品とオタクの街ですが、昔は宿屋町やった。その一軒「紀州屋源助」という宿屋に一人の侍が立ち寄ると一席の始まりです。
身共は明石の藩中にて万事世話九郎と申す者じゃが、夜前は泉州岸和田岡部美濃守殿ご城下、浪花屋といえる間狭な宿に泊まり合わせしところが、雑魚も藻艸も一つに寝かしおって、巡礼が詠歌をあげるやら、六部が経を読むやら、駆け落ち者がイチャイチャ申すやら、夜通し身共を寝かしおらなんだ。今宵は間狭にても良い、静かな部屋へ案内してもらいたい」
 ヘイ、というて店の若いもんの伊八は、侍を二階へ通します。
 その後へ兵庫あたりの三人連れ、伊勢参りの帰りと見えまして、やかましゅういうてやってまいります。
 その勢いに押されたのか、ついつい侍の隣の部屋へ通してしまいます。
 三人連れは部屋へ上がりますと酒を用意させて、綺麗どころの一つも呼んで酒盛りを始めます。その様子の賑やかなこと。
「伊八ぃ~! 伊八ぃ~!」
 侍が声高に伊八を呼びます。
「今宵は間狭にても良い、静かな部屋へ案内してくれと言うたのを忘れおったか。何じゃ、隣りのあの騒ぎは。即刻静かな部屋と取り替えてもらいたい」
 しかし、最早満室。静かにさせるからというので、何とか堪えてもろうて、伊八は三人連れの部屋へ。
 三人連れも始めは反発しますが、相手が侍と聞いてしゅんとしてしまうて、綺麗どころも帰してしまいます。
 そこで今度は話をし始めますが、話題は相撲に。話に力が入って、ほんまに相撲をとりはじめよった。
「伊八ぃ~! 伊八ぃ~!」
 伊八はまたもや平身低頭。三人連れのところへ行って静かにさせます。
 三人連れは今度は色恋の話を始めます。すると一人が、自分は高槻藩の重役・小柳彦九俺という侍の奥方に間男して、その奥方と弟の二人を殺して、五十両の金を持って逃げているんだと言い出しました。
「伊八ぃ~! 伊八ぃ~!」
 三度、侍は伊八を呼びますが、今度は様子が違います。
「みども明石の藩中にて万事世話九郎と申したな」
「へぇ、さよぉうかがいました」
「あれは世を偽る仮の名、まこと高槻の藩中にて小柳彦九郎と申す者じゃ。八年以前、藩許において妻、弟を討たれ、逆縁ながら仇討ちをと諸国をへ巡るうち、伊八喜んでくれ、今宵その仇の在処が分かった隣りの部屋に泊まり居る喜六、清八、源兵衛。中なる源兵衛と言えるやつ、妻、弟の仇にまぎれなし。今宵踏み込んで仇を討とうか、先方より仇と名乗って討たれに来るか。二つに一つの返答をば……、聞ぃてまいれっ」
 さあ、大変です。伊八は血相を変えて三人の部屋へ。
 話を聞いて三人も色を失います。源兵衛は三十石の中で聞いた話と言いますが、侍が納得してくれるはずもありません。伊八も間男するような顔ではないととりなしますが、応えません。
 踏み込んで即刻討ち取るという侍に、伊八が人殺しがあったというのでは商いに障るのでそれだけはご勘弁を、と頼み込んで漸く侍は刀を納めます。
「うむ、さようであった。しからば斯様いたそう。明朝正巳の刻、日本橋に於いて出会い仇といたそう。喜六、清八の両名も、朋友のことであれば定めし助太刀いたすであろうが、助太刀するせんにかかわらず、ついでに三人ともズバッといてしまおう。それまであの三名の命しかとその方に預け置くぞ、一人たりとも逃がしなば、家内中撫切りじゃ、左様心得い」
 三人も伊八も宿屋のもんもみんな寝るどころやありません。一方の侍は豪胆なもんで高いびきです。
 翌朝、侍は身支度を整えますと宿賃を払い、気持ちよさそうな顔で宿を出ようとします。三人も立ちたいと言えば立たせてやれ、泊りたいと言えば泊めてやれと言います。
「えっ、あの出会い仇の一件は?」
「ハッハッ……、伊八、許せ。ありゃ嘘じゃ」
「嘘ぉ……、わたいら宿のもん夕べ一目も寝てしまへんのだっせ。何でそんな嘘をおっしゃったんで?」
「許せ。ああ申さんと、また夜通し寝かしおらんわい」