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台湾生まれのパンダ、一般公開。公式チャンネルには映像も一杯。

今朝(1月6日)に日本の新聞各紙も報じているが、台北動物園の子パンダ「圓仔」が一般公開される。「圓仔」は大陸中国から台湾に送られたオスの「團團」とメスの「圓圓」との子で、初めて台湾で生まれたパンダ。
動物園での一般公開は本日6日からだが、その様子はyoutubeの公式チャンネルで公開されてきたし、一日に数時間はライブ映像も配信されてきた。これは今後も続くだろうから、関心のある方はそちらも是非。

ギャラリー

上海紀行 その6 復興公園周辺。孫文と中国革命ゆかりの建物

さて、三日目、夜中の間に強風でも吹いたのか、はたまた土曜日で内陸の工場が休んでい … 続きを読む

上海紀行 その5 首都消失!? 記録的な汚染の中を虹口へ(後編)。

(承前)
「多倫路文化名人街」を後にしまして、四川北路に戻りました。ここから南へ向かいます。
巨大な「上海第一人民医院分院」を尻目にころして南へ。
通りの向かいに現れましたのが、「永楽坊」。

かつて、この一角に「梅機関」がありました。「梅機関」は、設立者・影佐禎昭中将の名をとって「影佐機関」とも呼ばれる日本軍の特務機関です。国民党内にあって親日的であった「汪兆銘」を支援して、所謂「南京国民政府」樹立の工作を行いました。
今はそんなきな臭いことを微塵も感じさせない下町になっています。
そのまま南に下ったところに「横浜橋」があります。

ここを南に渡ると、やや街の様相が変わります。再開発が進んでいます。

ここでちょっと休憩してお昼ご飯を頂きました。

さらに南下していきますと、再び古い建物が見えてきます。

邢家橋南路を渡り、四川北路公園の中を抜けて、衡水路と乍浦路が交わる辺りに出ました。

右端に見えるのが、乍浦路です。この辺りは再開発の真っ最中で、一区画建物がなくなって労働者の範囲宿泊施設になっていたりしました。その路地を入ると、今は使われいないらしい建物があります。

これがかつて所謂「日本租界」の三大ホテルと言われた「大和ホテル」の建物です。この調子だと、数年後にはなくなっているかも知れません。
乍浦路を南に進んで武進路に出ました。左右に二棟並んで同じ様式の集合住宅が建っています。

これは東側の棟です。
武進路を渡って少し乍浦路を進むと、白いかまぼこ状の建物が見えました。

葉が茂っていて見にくいですが、旧・西本願寺です。1931年に建てられた物です。
この少し南にもう一つ、寺院建築が残っていました。絶賛リノベーション中でしたが。

旧・本圀寺です。日蓮宗妙覚字寺の別院として建てられたもので、今の建物は1922年の建築です。
この辺で、小腹が空いたので、牛肉煎包をいただきました。

油断をすると肉汁が溢れるので、慎重に食べる必要がありました。
乍浦路と海寧路の角にある「網珈(ネットカフェ)」。

旧・ウヰルス劇場です。ここから北海寧路に逸れてみます。

こちらにも風情のある風景があちらこちらにあります。
もう少し行くと大きな建物があります。

表側はこんな感じですが、中に入ると、
ローマ風のファザードがあります。人民解放軍の海軍東海賓館ですが、かつては日本海軍武官府でした。
呉淞路に出まして、北を見ますと消防署が見えました。

消防局虹口中隊の建物ですが、旧・虹口救火会です。これも同じ目的で使い続けられているわけですね。
ぐるっと回って、乍浦路と海寧路の交差点を渡りますと、碑がありました。

虹口大戯院遺址の碑です。1908年に開業した中国初の映画館です。
振り返りますと、劇場がありました。

星美国際電影院。旧リッツ劇場です。
海寧路を四川北路まで歩きますと、妙に薄っぺらいビルがありました。

中国銀行虹口大楼のようですが、今は銀行も移転したみたいです。かつては東和洋行ホテルでした。異常に長いと思ったら、途中からそっくりの別のビルになっていたようです。
PM2.5の所為か、5時頃にはもう暗くなってくるし、歩き疲れもしましたので、地下鉄に乗って新天地へ戻りました。

そして「simply thai」でタイ料理を食べました。

これは非常に本格的なお味でした。

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上海紀行 その4 首都消失!? 記録的な汚染の中を虹口へ(前編)。

田子坊から戻って、当然食事はしたわけですが、それは別の所に譲りまして、観光の続きとまいります。
しかし、起きてみると外はこんな有様。

前日ははっきり見えていた「ザ・ランガム新天地」がすでにかすんでいます。距離にして約300mです。500mも離れるともう見えないというような状況です。
しかし、じっとしていても仕方が無いので、地下鉄で「虹口足球場」まで行きました。このあたりはかつては俗に「日本租界」と言われたところです。
でも、駅を出るとやはりこんな有様です。

とはいえ、町並みは往時を偲ばせる建物が沢山残っています。

まあ、中にはこんな所も。

献血が商売になるってことは所謂「売血」なんでしょうか。

しばらくは「四川北路」に沿って進みます。
「四川北路」と「東江湾路」の交差点にある、ひときわ偉容を誇る交通銀行の建物。

これは、かつて日本海軍特別陸戦隊本部が置かれていたところ。いまは南京軍区航務軍事代表弁事処となっています。実はかつて日本軍の施設だったものが、人民解放軍の施設になっているというケースは多く見られます。
通りを南に渡ると、石の門があります。

「多倫路文化名人街」です。この辺りには近代中国を代表するような文人が結構集まっていたんです。それを記念して整備されているのが、「多倫路文化名人街」です。
まず、その入り口に位置する白い建物。

1924年に建築されたイスラム様式の影響が色濃いこの建物は、かつて孔祥熙(宋家の三姉妹の長女・宋靄齢の夫)が住んだので、「孔公館」と呼ばれています。
その東隣が「拉摩斯公寓」。

ここは一時、近代文学の父・魯迅が住んだところでもあります。魯迅はこの辺りで引っ越しを繰り返していたので、住んでいたという場所がいくつもあります。


今は病院になっているこの建物もかつては国民党の軍人・白祟禧が住んだところ。今回は撮れませんでしたが、この東側にほとんど同じ建物があって、そちらはかつて日本軍の宿舎だったようです。
もう少し行くと、ガイドブックでもお馴染みの光景が。

「永安里」です。前の部分は1925年に建てられたもの、戦後増築されています。
その向かい辺りに、路地があります。

よく見ていただくと分かるのですが、路面に足跡がつけられています。

「魯迅」と書いてあります。そのほかにも「巴金」「茅盾」「郭沫若」などの足跡があります。靴が残っていればつけられはしますが、本当かどうかは分かりません。ここは進んでいくと、「景雲里」になります。

かつて魯迅が住んだところで、現在鋭意リノベーション中です。
路はゆるやかに東に曲がる本道と西へ向かう側道に別れます。その角にあるのが「夕拾鐘楼」です。

この名前は魯迅の名作「朝花夕拾」からとったものです。
本道を進むと、少し奥まったところに、趣のある建物が。

1920年頃に建てられた通称「薛公館」。戦中は日本軍が接収し、海軍武官府として使っていました。今は一般の集合住宅になっています。その南側に大きく聳えるのが「鴻徳堂」。

1928年にアメリカ北長老派の宣教師と中国の信者からの寄付によって作られた、中国様式の屋根を持つ特異な教会です。内山完造の妻・美喜子の追悼式がここで執り行われました。

さて、この「多倫路文化名人街」にはゆかりの人物の像が置かれています。

瞿秋白


柔石


葉聖陶


丁玲


郭沫若


沈尹黙


内山完造


馮雪峰


茅盾


魯迅

虹口編は後編へ続く。

上海紀行3 おしゃれな女性観光客に人気の「田子坊」

近年、雑貨を扱うお店やバーなどが進出し、一気に若者の集まる町と化した「田子坊」。元々は下町情緒溢れる住宅地でした。1999年、彫刻家の陳逸飛がアトリエを開き、それをきっかけにして芸術家が集まり、そこを訪れる人を目当てにバーやレストラン、雑貨店が自然と集まり始めました。ですから、案内図はあるものの、全く町自体は整備されたものではありません。


これが、南側の正門です。訪れる際には、ちゃんとこちら側から入ってくださいね。

上海紀行その2 馬当路から復興中路

新天地時尚を抜けて、馬当路へ出ます。霞がかかったようで、太陽までぼんやりとしたような様子に見えます。おかげで昼過ぎでも薄暗い感じです。

馬当路を南に向かうと、途中に「大韓民国臨時政府旧址」があります。1919年の三一独立運動とほぼ時を同じくして、上海に朝鮮の民族運動家によって大韓民国臨時政府が樹立されます。臨時政府初代総理は、後の大韓民国初代大統領李承晩です。臨時政府と名前は立派ですが、実態は亡命活動家やテロリストのアジトのようなものです。唯一場所が特定されて現存する、この場所も本来は労働者の住宅です。ここには1926年から32年まで、当時の首班・金九以下数名が集まり、新聞の発行や、朝鮮本土との連絡を行ったりしていました。しかし、1932年の虹口公園(現・魯迅公園)での爆弾テロを決行した結果、彼等は上海にもいられなくなり、以後は中国各地を転々とすることになります。


角を曲がって復興中路を西に向かいますと、淡水路との交差点に教会があります。「上海市基督教諸聖堂」です。1925年のクリスマスに竣工したローマ様式の教会ですが、現在は一部改装中です。

その向かい側の巨大な建物は「花園公寓」、旧・派克公寓(Park Apartment)で竣工1926年です。


この通りは両側とも、租界時代の建物がよく残っています。重慶南路との交差点南東側に建つ「重慶公寓」、旧・呂班公寓(Dubail
Apartment)は1931年竣工。アメリカのジャーナリスト、アグネス・スメドレー(1892-1950)が住んでいたところです。彼女は、ゾルゲと尾崎秀実を引き合わせた女性として有名です。


その北向かいが、中国近代美術教育の父、劉海粟(1896-1994)の旧居です。劉海粟は、1911年11月、若干17歳で上海図画美術院を設立します。これは中国初の近代美術専門学校で、上海美術専門学校の前身です。


重慶南路を南に下ると、左翼ジャーナリストで抗日運動家・鄒韜奮(1895-1944)が暮らした万宜坊がほとんど当時の姿ままで残っています。

更に南に行くと、上海交通大学医学院です。重慶南路の向かい側も同大学のキャンパスです。この医学院は元・震旦大学。1902年に、震旦大学は、後の中華民国初代教育長・蔡元培(1868~1940)が、イエズス会士の馬相伯に南洋公学の学生24名の教育を依頼したことに始まります。翌年、生徒が100名となり、大学の前身である震旦学院が設立され、1907年に馬相伯の約14万元銀相当の洋銀・土地の寄付によって、現在の位置に移転しました。

建国中路を西に折れて、しばらく行くと、南側に上海観光の注目スポットのひとつ「田子坊」があります。

ですが、正面はさらに南側の泰康路なので、少し手前の思南路あたりを南に折れていくのが本当です。(続く)

上海紀行その1 空港から新天地

久々の上海です。およそ二年ぶりでしょうか。
今回は、中国東方航空で入ってきました。関西国際空港発が9時40分、上海の浦東国際空港についたのは11時半頃です。着陸自体はもっと早かったのですが、ターミナルまでが随分と時間がかかりました。
空港から市内までは、やはりまずは「上海トランスラピッド」、通称「上海マグレブ」に乗らないといけませんね。

最高時速430km。片道一人50元ですから、地下鉄の10倍ほどですが、当日の航空券があれば片道40元に割り引かれますし、時間の短縮にもなるので、元は十分取れると思います。帰りに荷物が多くなってしまた場合などは、時間によっては龍陽路駅までの地下鉄が混むことがあるので、その場合はタクシーやリムジンバスを使った方がいいかもしれません。

これで、龍陽路駅まで約8分です。龍陽路駅から地下鉄2号線で南京東路駅まで行き、10号線に乗り換えて新天地駅まで行きました。新天地駅は地下でショッピングセンターの「新天地時尚」と直結になっています。更に「新天地時尚」の2階から、向かいの「新天地南里商場」に連絡通路があります。

今回のホテル「88新天地」は「新天地南里商場」の向かいの建物なので、このルートだと段差と階段は最小限ですみました。部屋は、パーク・ビューということで一応黄陂南路を挟んだ「太平橋公園」が見える部屋を取りましたが、実際には公園はぎりぎり見えるくらいで、ほぼ北向きでした。新天地南里、新天地北里、ザ・ランガム新天地、K11が一直線に見えます。

「88新天地」は7階建てで全53部屋。1階はフロントとオフィス、3階は一部がクラブラウンジになっているので、各階十数部屋ということになります。スパやレストランは、利用できますが、設備としてはありません。すぐ近くにある同系列の「ザ・ランガム新天地」のスパ「川」やレストラン「唐閣」を、「ザ・ランガム」の宿泊客と同様に使うことができます。

さて、それでは、部屋を後にして散策に行きたいと思いますが、生憎と当日はこのような有様でした。

Pm2.5が猛威を振るっていました。

久々の上海 1

通算では6度目くらいの筈ですが、暫く来ていなかったので、随分と様子が変わっています。
今回の目的地は新天地。連れ合いが、mt store at monosociefy ShangHai に来たがったので、随行カメラマンという格好です。
会場が新天地站近くのショツピングセンター「新天地時尚」中にある「物心 monosociefy」というお店なので、新天地南里にある「88新天地」というホテルをとりました。ここはランガム系で、部屋数が少なく、施設もクラブラウンジしかありません。ですから、近くにある「ザ・ランガム新天地」のレストランやスパを使うことができるようになっています。
ここからだと、「物心」までは新天地のショツピングセンターから連絡通路を通って新天地時尚へ行け、しかもお店のすぐ前に出られます。

写真がうまくあげられないので、つづきは改めて。

【二ュースと旅行】中国がロケット長征3Bを打ち上げた西昌ってどんなところ?

中国は現地時間12月2日午前1時半、月面探査機「嫦娥3号」を搭載した大型ロケット「長征3B型」を、四川省の西昌衛星発射センターから打ち上げました。
どうやら、予定の軌道への投入にも成功したようです。「嫦娥3号」は、着陸機と「玉兎」と呼ばれる月面探査車から成り、計画通り行けば、12月中旬に月面に軟着陸し、探査を開始する見通しだと言います。
中国には現在、4つのロケット発射場があります。

・酒泉衛星発射センター(甘粛省酒泉)
・太原衛星発射センター(山西省太原)
・文昌衛星発射センター(海南省文昌)

そして、 今回の

・西昌衛星発射センター(四川省西昌)

です。文昌ができるまでは、最も南に位置する発射場だったので、静止軌道への投入は、専ら西昌の役目でした。

実は、もう十数年前ですが、私はこの西昌衛星発射センターを訪れたことがあります。その時の写真をお見せしながら、少し西昌をご紹介しましょう。
この西昌という土地は、発射場の標高も1500m程度という高地で、周囲を山に囲まれていながら、四川省第二の大きさを誇る「邛海」という湖も有り、風光明媚な土地です。古来より、彝族の住む土地で、立派な「彝族博物館」も作られています。

彝族博物館

さて、それでは、発射センターの方に話を移しましょう。


これが「航天城」、入り口です。
敷地の中には、色んなオブジェが置かれています。

火龍出水


こちらは、「火龍出水」という明代に作られた、多段式の艦/地対艦ミサイルのオブジェです。
そのほかに、火星人なんかもいます。

圧巻は、古代からのロケット技術を総まとめでレリーフにしたこちら。

真ん中に、ひときわ高く掲げられているのが、明の高官・萬戸(王富)。人類で初めて、ロケットで空を飛ぼうとした人物と言われています。

萬戸(王富)


イギリスの科学史家ジョゼフ・ニーダム (1900-95) の大著『中国の科学と文明』に記載され、一躍有名になりました。1970年には国際天文連合 (IAU) によって月の裏側、南緯9.8度・西経138.8度にある直径約52kmのクレーターにその名がつけられました。
さて、そして、これが発射台です。

実は、西昌衛星発射センターは軍の管轄で、発射台周辺と管制施設は見学はできますが、撮影禁止です。このときも、発射台のすぐ近くまで行きましたし、管制室も見学しましたが、撮影はできませんでした。
この見学は1997年の8月で、実は長征ロケットの打ち上げが再開されてから一年と経っていない時期でした。何があったのかというの、前年の2月14日、インテルサット708を搭載した長征3B型1号機が打ち上げ直後にコントロールを失い、近郊の市街地に落下し、500人以上が犠牲となる史上最大の惨事が起こっていたのです。

 原因の究明と改良が行われ、その年の10月には、打ち上げが再開されました。

今回の打ち上げも同じ「長征3B型」です。つまり、十数年の事故を乗り越えて改良と運用実績を積み重ねてきた「枯れた」ロケットだったわけです。その点では、手堅い打ち上げだったと行っていいでしょう。

「天王寺詣り」で四天王寺参詣

先日、四天王寺さんへ行く機会があったので、いくつか写真を撮ってきました。
このブログでは、落語とくに上方落語を中心に扱っていますので、ここは「天王寺詣り」の噺を交えながら、ご紹介したいと思います。
「天王寺詣り」というと、六代目笑福亭松鶴が有名ですが、その原型は五代目笑福亭松鶴のものです。

死んだ飼い犬の引導鐘を撞いてやりたいという男に連れられて、ご隠居さんが案内役でやってきます。合邦が辻から一心寺、向かいが安井の天神さん(安井神社)、という道順ですので、西からやってきたことになります。そして正面に見えてきますのが、四天王寺の大鳥居です。

石の鳥居

「マア立派な鳥居でやすな」
「これを日本三鳥居と言うね」
「ヘエ日本三鳥居てなんでやす」
「大和吉野にあるのが、金の鳥居、芸州安芸の宮島にあるのが楠の鳥居、天王寺石の鳥居とあわせて、これで日本三鳥居と言うね」

(五代目笑福亭松鶴『上方落語100選3』。以下同じ)

この石の鳥居には扁額が掲げられています。片側の縁がないので男はチリトリと言いますが。
ご隠居さんが、中に何と書いてあるかと尋ねますが、男は「四字ずつ書いて、四四の十六字」と答える始末。

「釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心」

ソレ、釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心じゃ」
「何にも分からん、ねこの糞じゃ」
「コレ、いらんことを言いな」
「どなたが書いたんでやす」
「弘法の支え書きと言う」
「鰌汁の中に、入ってあるのん」
「それは、ごんぼのささがきや、誠は、小野道風の自筆やともいう」

今度は視線が下に降りまして、鳥居の根元。カエルが三つ彫ってあると言います。今ではそのような形はまるで分かりません。ちなみに、右側の根元だけ突起が四つついています。その鳥居の根元に左右一対あるのが、通称「ボンボン石」とか「ポンポン石」とか言われるもの。元々は棒でも指したんやないかと思うんですが、穴というか窪みがあります。

「あの石の真ん中に四角な穴がある、石を持ってたたくとぼんぼんと唐金のような音がする、そこへ耳をあてると、わが身寄りの者が、来世で言うてることが、聞こえるのや」

ボンボン石(ポンポン石)

音が聞いてみると、景気のええ呼び込みの声がする。さては死んだ叔父さんが、あの世で手広う商売でもやってるのかと思うたら、実は隣の茶店の呼び込みです。
続いて、ご隠居が一気に境内を紹介します。

「こちらへおいで、これが西の御茶所、納骨堂に太子念仏堂、引声堂、短声堂、見真大師、お乳母さんというて、乳の出ぬ人はここへ詣る、布袋さんが祭ってある、これが天王寺の西門や」

残念ながら、ここで述べられているものの中で、現在もほぼその場所に再建されているのは、見真大師とお乳母さん、そして最後の西門だけです。

乳布袋尊

布袋さん

見真大師(親鸞聖人旧跡と像)

しかし、元禄期の「新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図」を見ると、鳥居と西門の間にいくつかの建物が見え、「たんせい堂」「いんせいたう」「太子いんたう」の文字が見えます。
四天王寺旧伽藍

そのほかの資料を参考にすると、通りの南に西から「大師堂(恐らく太子念仏堂)」、「茶屋」「引声堂」、北側に「短声堂」と「納骨堂」があったようです。「短声堂」の跡は、四天王寺中学・高等学校の正門の脇にあります。

右が今の納骨堂。左は阿弥陀堂

納骨堂は現在はもっと南に阿弥陀堂と並んで立っています。

そして、西門をくぐります。

西門

この西門には特徴が有ります。転法輪、噺の中では「輪宝」と呼ばれていますが、これが内の柱に一つずつ、計四つついています。

輪宝(転法輪)

「天王寺の寺内は天竺の形をとったもの、手洗水がない、水という字が崩して車にしてある、三度回すと、手を洗ろうたも、同然や」

噺の中ではそう説明されていますが、仏の法を説くことをいうので心が清らかになるというのが本来の意です。
そもそも、今では手水は境内の彼方此方にあります。
西門を入りますと、松が植わっています。これが義経鎧掛けの松です。

義経鎧かけ松

「コレが、義経の鎧掛松や、コレが経堂、経文ばかりで詰まってあるのや、コレが金堂、この格子の中をのぞいて見なはれ」
「何やチョン髷に結うた親父さんが上下着て座ってますな」
「アレが淡太郎の木像や」
「コレだすな、万さんとこの子取りよったのは」
「ナニが」
「ガタロの極道だすか」
「淡路屋太郎兵衛という、紙屑問屋の旦那や、天王寺が大火で焼けた時、五重の塔を建立しなはった、その木像が残してあるのや」

経堂は現在はありません。西門からまっすぐに西重門へ向かう道の北にあったらしい。

境内の礎石

経堂は輪蔵ともいいます。礎石だけは残ってます。その関係かしりまへんが、今は傍に納経所があります。
この次の金堂は、西重門をくぐった先にあります。噺ではすぐそばのように言うてますが、ちょっと離れてます。

金堂

今の金堂、というか伽藍は戦後に再建されたもので、江戸時代に再建された伽藍は台風で壊れたり戦災で焼けたりてしまいました。木像も今はありません。ただ、淡路屋太郎兵衛の墓は中央区の正法寺にあります。
で、男はここで、「その五重塔ちゅうのはどこにおまんねん」と尋ねます。当然、金堂のすぐ前にあるわけですが、男はそれを五重の塔とは思わなかったんです。

五重の塔

「なんでこれ五重の塔と言いますね」
「五ツ重なってあるから、五重の塔や」
「ひイふりみイよオ、四ツしかおまへん」
「上にもう一ツあるがな」
「あの蓋とも五重だすか」
「重箱みたいにいいないな」

確かに、重箱というのは二の重やとか三ぼ重やとか言いますが、蓋は数えませんはな。
勿論今の五重の塔は戦後に再建されたもんですが、一番上には仏舎利が納められております。そもそもお寺の塔というのはその為に建てられるもんでっさかいにね。拝観時間中はそこまで登ることができます。
噺の方では、この後に伽藍中の案内、そして南に抜けて、再び境内の散策が始まります。ここが駆け足にポンポンと喋っていくところですが、実際に歩くと結構な距離です。

「こちらへお出で、これが竜の井戸、天王寺の境内は池であった、竜が主、聖徳太子がこの井戸へ符じ込んでしもたので、竜の井という、これが回廊や、南門、仁王さんの立っているのはここや、西に見えるが神子さん、南のお茶所、虎の門、お太子さん、前にあるのは夫婦竹、太子引導鐘、猫の門、左甚五郎作で、大晦日の晩にはこの猫が泣くという、用明殿、指月庵、聖徳太子十六歳のお像、亀井水、経木流す所や、たらりやの橋、俗に巻物の橋、向うに見える小さいお堂が丑さんで、前にあるのが瓢たんの池、東に見えるが東門、内らにあるが釘無堂、こちらが本坊、足形の石鏡の池に、伶人の舞いの台や」

これ、何やその辺をまとめて紹介しているようですが、実際は境内を大体四分の三周ぐらいしてます。
まず、「竜の井戸」ですが、これは今も西重門入ったちょっと北のところにあります。せやから噺はちょっと後にもっどてるのやね。回廊は伽藍の周囲ですわな。

回廊(これは東側)

噺ではコレを南へ下がって、南門というてますが伽藍配置では「中門」、現在は「仁王門」というてるところから、伽藍の外へ出てます。今はこの「仁王門」からは出られへんようになってます。

中門(仁王門)。噺では南門と呼んでいる。

万灯院

「紙子さん」というのは「紙子堂」、ほんまは「万灯院」と言います。これは今も同じ所に建ってます。勿論建物は変わってますが。
南の御茶屋、夫婦竹、これは今はありません。御茶屋あたりには今は南休憩所があって、役割をひきついています。「太子引導鐘」は今もありますが、当時とは別の建物です。

南鐘堂(太子引導鐘)

「虎の門」は今も大体同じくらいの所にあります。

寅の門

寅の門のトラ

この虎の門は「お太子さん」つまり「太子堂」の門の一つです。続く「猫の門」もそうです。今は西向きに建っていますが、元々は北向きに建っていました。

猫の門

猫の門のネコ

「用明殿」「指月庵」は「太子堂」の北、今宝物殿があるあたり、あの辺にあった。お太子さんの像も今はそこにはありません。太子堂に収蔵されています。
これが、大体西門のちょうど反対側あたりです。ここから少し北へ歩きますと、「亀井水」。今「亀井堂」と「亀井不動尊」があるあたりです。

亀井堂

噺では、ここで「たらりやの橋」というのがでてくる。しかし、今はあの辺に橋はありません。昔は亀井堂から東の下の池まで水路があったんです。そこにいくつか橋が架かってたらしい。そのうちの一つが「たらりやの橋」。その橋の石が、宝物殿の南に置かれています。説明が書かれていますが、これ実は古墳時代の石棺の蓋やったんです。明治時代にそれが分かってから、橋は架け替えられたようです。

橋の石

「丑さん」というんは「石神堂・牛王尊」です。今は「亀井堂」のすぐ傍にありますが、昔はもっと西側にあったらしい。

牛王堂

その向こうには弁天堂のある「下の池」があります。ここでいう「ひょうたん池」は多分これのことでっしゃろな。

弁財天堂と下の池

その更に向こうにあるのは「東門」です。手前には「伊勢神宮遙拝石」があります。

東門と伊勢神宮遙拝石

「内らにあるのが釘無堂」というてますが、これは本坊の塀の内側にあったからなんです。「釘無堂」というのは、ちょうど弁天堂の北にあった本坊の宝庫のことなんです。
本坊は四天王寺の境内の北東の角一帯が全部そうです。今はその庭には入ることができます。

本坊への門

これで、南から北に上がってきて、東を向いて、西向きに折り返してきたことになります。
この後、五代目の噺では、すぐ足形の石」に行きますが、六代目の噺では、大鐘楼に回っています。
大鐘楼は、六時堂の北西にあったんです。ここには、当時、世界最大の釣鐘があったんです。1903年(明治36)の第五回内国勧業博覧会に併せて、聖徳太子1300年の御遠忌を記念して鋳造されたもんで、高さ7.8メートル、直径4.8メートルもあったそうです。今も四天王寺さんの南参道に「釣鐘まんじゅう」を製造発売するお店がありますが、この大釣鐘を記念して作られたもんです。釣鐘は太平洋戦争の時に供出されていまいましたが、大鐘楼は「英霊堂」となって残っています。

英霊殿(大鐘堂)

そこから南に下がりますと、上の池があります。今は「丸池」というてますが、この北西に「仏足石」があります。これが「足形の石」でしょうから、「鏡の池」というのは「丸池」のことでしょう。

丸池

仏足石

ここから東へとって返しますと、「伶人の舞いの台」、石舞台です。池の上にかかった橋のようになっています

石舞台

この石舞台の所で、男がご隠居さんにおかしなことを聞きます。
「天王寺の蓮池に亀が甲干す、はぜをたべる、引導鐘ごんと撞きや、ホホラノホイてなんだす」
「コレそんなけったいな尋ねかたをしないな、皆がお前の顔を見てるがな、それはここや」
「アア向こうに亀がたんといてます、向処へいきまひょうか」
「向こうへ行かいでも、手を叩くと、皆亀がこちらへ来るがな」

池の亀。親亀の上に子亀が載っている。

こういう流れですんで、いまも亀がようけいてる石舞台の池が「蓮の池」のこのでっしゃろな。今でも手を叩いたら寄ってくるかどうかはしりまへんが、昼間に甲羅を干している亀の姿はのんびりしててよろしいもんです。
噺ではこのあとで境内の賑やかな様子が入りまして、ご隠居が、

「サアこちらへおいで、これが引導鐘や」

というて、漸く北の引導鐘に辿り着きますが、実際には北の引導鐘、「北鐘堂」は亀の池のすぐ南にあります。ここは今でもずっと引導鐘を撞いております。

北鐘堂

ここで、男は死んだ飼い犬のクロの為に引導鐘を撞いてもらいます。
ここまできますと、ちょっと南にさがると、元の西門の前に出てきます。そうしたら、来たのと逆に帰ったらええんです。上手い具合に境内を一周回って帰れる道順になったあるんです。

残念ながら、度重なる災害や戦災を受けたせいで、四天王寺はその殆どが戦後に再建された建物ばっかりです。しかし、重要な建物は大体元の建物と同じような位置に再建しています。ですから、細かいところは合いませんが、今でも「天王寺詣りを観光ガイドに聞きながら境内を回ることは一応できるんです。

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