月別アーカイブ: 10月 2013

【歳時記と落語】HAPPY HALLOWEEN!! といえばカボチャ!

halloween-pumpkin-11286965234H51910月31日は「ハロウィン」です。近年は日本でも大々的にやられるようになってきました。魔女の扮装やらカボチャの「ジャックランタン」やらもすっかりおなじみになりましたな。
元々、「ハロウィン」はアイルランドのケルト人たちが彼らの暦の「大晦日」に行っていた行事に起源を持つもんやそうです。そこに秋の収穫祭やらキリスト教の万聖節(11月1日)の前夜という意味合いやらが習合して出来たもんやそうです。「ハロウィン」という名前も、万聖節(All Hallow’s)の前日(eve)=Hallow+een(eve)からきたんやとも言いますな。
今のような形になったのはアメリカでのことやそうで、宗教的な意味合いはほとんどなくなってます。
ハロウィンのカボチャというと、オレンジ色ですが、これはカボチャの中でもペポカボチャの仲間です。日本で栽培されている食用カボチャの殆どは西洋カボチャで、これは江戸時代末期から明治の初め頃に入ってきたもんです。一方、伝統野菜としての日本カボチャ(東洋カボチャ)があります。これが日本に入って来たんは、江戸時代の初期です。
カボチャは「カンボジア」が語源やといいますが、漢字では「南瓜」と書きます。南から伝わったもんやというのが出てますな。他にも「南京」やとか「唐茄子」やとか言いますが、いずれも南から来た伝わったことに変わりはありせんな。
落語には「唐茄子屋政談」という噺があります。
とある大店の若旦那、放蕩が過ぎて勘当されます。すると、金の切れ目が縁の切れ目、誰も相手に何ぞしてくれまへん。いっそ身投げでも、としているところへやってきた叔父に引き止められて、唐茄子の行商を手伝うことになります。力仕事なんぞしたことがないのでへっぴり腰、担いだ天秤棒に殺されそうになるような有様で、同情されて買ってもらうという次第。売れ残ったカボチャを担いでいくと、吉原が見えてまいりまして、なにやらしんみりとした心持になります。黙って歩いていたことに気がついて、売り声の練習を始めます。
町中に戻り、ある長屋にさしかかったところで、どこか品がある若女房に呼び止められます。カボチャ一つ、ということだが、奥では子どもがお腹を空かせている。話を聞くと元は武士の家だが、今は小間物商いで生活をしているという。しかし、この三ヶ月、旅先の夫からの仕送りが滞っており、三日も何も食べていないという話。
同情した若旦那、売り上げを全部渡して、叔父のところへ帰ってきます。
話を聞いた叔父は、売り上げを誤魔化したのではという思いもあって、若旦那を連れて長屋へ確かめに参ります。
するとなにやら様子がおかしい。長屋のものに話を聞くと、くだんの女房、金を返そうと飛び出したところを因業家主に見つかって、全部取り上げられてしまい、止むに止まれず首をつった。幸い見つけるのが早く、命は取り留めたという。
怒った若旦那、大家の家に殴りこんだ。長屋一同も加勢して大騒ぎ。
この事がお上に知れ、裁きの末、大家はきついお咎めを受け、若旦那は青緡五貫文を褒美に貰い、勘当も許されます。母子は叔父の持っている長屋へ引き取られ、丸くおさまります。
所謂「大岡政談」から出た講談ダネの一つで、人情噺なんでサゲはありません。
褒美の青緡五貫文というのは、落語で褒美を貰うときの決まり文句みたいなもんで、「孝行飴」にも出てきます。一貫文は1000文なんで、銭5000枚ということになりますが、普通一緡百文は銭96枚で、4800枚しかありません。ですが、ばらして使わん限り、一緡96枚で百文として使いましたんで、値打ちは5000文ということになります。

志ん朝復活-色は匂へと散りぬるを ろ「唐茄子屋政談」
古今亭志ん朝
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル (2002-06-19)
売り上げランキング: 60,348
圓生百席(29)唐茄子屋/豊竹屋/夏の医者
三遊亭円生
ソニーレコード (1997-09-21)
売り上げランキング: 137,520
古今亭志ん生 名演大全集 26 唐茄子屋政談(上/下)/へっつい幽霊
古今亭志ん生(五代目)
ポニーキャニオン (2005-11-16)
売り上げランキング: 151,446

【歳時記と落語】秋の夜長の仇討ち

10月23日は「霜降」、文字通り霜が降りるということなんですが、今年はまだまだ台風が頑張っていて、なんやいまひとつピリッと空気が引き締まってこんですな。しかし、さすがに日はしっかりみじこなってきました。逆に言うたら夜はなごなった。ついつい夜更かしをしてしまうもんですが、昔は日ぃを決めて、夜明かしをして話をしあうという風習があったらしい。
 それが甲子の日や庚申の日やったんですな。有名な肥前平戸藩主松浦静山の「甲子夜話」の書名は、甲子の夜に書き起こしたことにちなんだもんですが、それもそうした風習が背景にあったんやないかと思います。別に「庚申夜話」という本も残っておるそうです。
 今年は10月21日が庚申、25日が甲子になっております。
 この甲子ないしは庚申の夜話が出てくるのが、「甲子待(庚申待)」です。夜通し話をしていく間に敵討ちの話になっていく。これは5代目古今亭志ん生が得意とした話ですが、元は上方の「宿屋仇」です。
 今、大阪で日本橋(ニッポンバシ)というたら、電化製品とオタクの街ですが、昔は宿屋町やった。その一軒「紀州屋源助」という宿屋に一人の侍が立ち寄ると一席の始まりです。
身共は明石の藩中にて万事世話九郎と申す者じゃが、夜前は泉州岸和田岡部美濃守殿ご城下、浪花屋といえる間狭な宿に泊まり合わせしところが、雑魚も藻艸も一つに寝かしおって、巡礼が詠歌をあげるやら、六部が経を読むやら、駆け落ち者がイチャイチャ申すやら、夜通し身共を寝かしおらなんだ。今宵は間狭にても良い、静かな部屋へ案内してもらいたい」
 ヘイ、というて店の若いもんの伊八は、侍を二階へ通します。
 その後へ兵庫あたりの三人連れ、伊勢参りの帰りと見えまして、やかましゅういうてやってまいります。
 その勢いに押されたのか、ついつい侍の隣の部屋へ通してしまいます。
 三人連れは部屋へ上がりますと酒を用意させて、綺麗どころの一つも呼んで酒盛りを始めます。その様子の賑やかなこと。
「伊八ぃ~! 伊八ぃ~!」
 侍が声高に伊八を呼びます。
「今宵は間狭にても良い、静かな部屋へ案内してくれと言うたのを忘れおったか。何じゃ、隣りのあの騒ぎは。即刻静かな部屋と取り替えてもらいたい」
 しかし、最早満室。静かにさせるからというので、何とか堪えてもろうて、伊八は三人連れの部屋へ。
 三人連れも始めは反発しますが、相手が侍と聞いてしゅんとしてしまうて、綺麗どころも帰してしまいます。
 そこで今度は話をし始めますが、話題は相撲に。話に力が入って、ほんまに相撲をとりはじめよった。
「伊八ぃ~! 伊八ぃ~!」
 伊八はまたもや平身低頭。三人連れのところへ行って静かにさせます。
 三人連れは今度は色恋の話を始めます。すると一人が、自分は高槻藩の重役・小柳彦九俺という侍の奥方に間男して、その奥方と弟の二人を殺して、五十両の金を持って逃げているんだと言い出しました。
「伊八ぃ~! 伊八ぃ~!」
 三度、侍は伊八を呼びますが、今度は様子が違います。
「みども明石の藩中にて万事世話九郎と申したな」
「へぇ、さよぉうかがいました」
「あれは世を偽る仮の名、まこと高槻の藩中にて小柳彦九郎と申す者じゃ。八年以前、藩許において妻、弟を討たれ、逆縁ながら仇討ちをと諸国をへ巡るうち、伊八喜んでくれ、今宵その仇の在処が分かった隣りの部屋に泊まり居る喜六、清八、源兵衛。中なる源兵衛と言えるやつ、妻、弟の仇にまぎれなし。今宵踏み込んで仇を討とうか、先方より仇と名乗って討たれに来るか。二つに一つの返答をば……、聞ぃてまいれっ」
 さあ、大変です。伊八は血相を変えて三人の部屋へ。
 話を聞いて三人も色を失います。源兵衛は三十石の中で聞いた話と言いますが、侍が納得してくれるはずもありません。伊八も間男するような顔ではないととりなしますが、応えません。
 踏み込んで即刻討ち取るという侍に、伊八が人殺しがあったというのでは商いに障るのでそれだけはご勘弁を、と頼み込んで漸く侍は刀を納めます。
「うむ、さようであった。しからば斯様いたそう。明朝正巳の刻、日本橋に於いて出会い仇といたそう。喜六、清八の両名も、朋友のことであれば定めし助太刀いたすであろうが、助太刀するせんにかかわらず、ついでに三人ともズバッといてしまおう。それまであの三名の命しかとその方に預け置くぞ、一人たりとも逃がしなば、家内中撫切りじゃ、左様心得い」
 三人も伊八も宿屋のもんもみんな寝るどころやありません。一方の侍は豪胆なもんで高いびきです。
 翌朝、侍は身支度を整えますと宿賃を払い、気持ちよさそうな顔で宿を出ようとします。三人も立ちたいと言えば立たせてやれ、泊りたいと言えば泊めてやれと言います。
「えっ、あの出会い仇の一件は?」
「ハッハッ……、伊八、許せ。ありゃ嘘じゃ」
「嘘ぉ……、わたいら宿のもん夕べ一目も寝てしまへんのだっせ。何でそんな嘘をおっしゃったんで?」
「許せ。ああ申さんと、また夜通し寝かしおらんわい」

【ニュースと落語】刺されると死ぬ恐れもある猛毒の貝が徳島沖で発見!

タガヤサンミナシガイ(出典:wikipedia)

今回、徳島県海部郡牟岐町沖で見つかったのは、イモガイ科の「タガヤサンミナシガイ」。イモガイ科の貝はいずれも毒を持っており、最も猛毒の「アンボイナガイ」では、毒の半数致死量は0.012mg/kgで、インドコブラ(0.45mg/kg)の約37倍、世界最強の毒ヘビ・インランドタイパン(0.025mg/kg)の約2倍です。「タガヤサンミナシガイ」もそこまでではありませんが、猛毒を持っています。
先日は、高知県東洋町沖で「アンボイナガイ」が見つかっていますが、日本にはイモガイの仲間は100種以上が主に紀伊半島以南に生息しているそうなので、種類全体では、わりと普通にいるようです。

アンボイナガイ(出典:wikipedia)

イモガイの仲間は、里芋に似た形の非常に美しい模様の貝を持っています。そのために捕ろうとしたダイバーが刺されて死亡する事故もあるようなのですが、このどう区切って読んでいいのか分かりにくい「タガヤサンミナシガイ」も美しい貝です。漢字で書くと「鉄刀木身無貝」ですので、「タガヤサン・ミナシ・ガイ」となります。
鉄刀木は、マメ科の高木で、材は黒色で、柾目にすると非常に美しい模様が現れます。非常に堅くて重いのが特徴です。鉄刀木という字も、鉄の刀のように重くて堅いというところからきています。家具やステッキなどの材料として使われています。実は落語の中にも登場しています。

「わたい、松屋町の加賀屋佐吉方から参じましたんやが、先度、仲買の弥一が取り次ぎました道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗三作の三所物、ならびに備前長船の則光、横谷宗珉四分一拵え小柄付きの脇差。あら、柄前が鉄刀木やとの仰せにございましたが、埋もれ木やそぉにございまして木が違ぉておりますので、この旨ちょっとお断りを申しあげます。ならびに、黄檗山金明竹、寸胴切りの花活け、のんこの茶碗。古池や蛙飛び込む水の音、と申します。これは風羅坊正筆の掛け物でございまして。沢庵禅師の一行物には隠元・木庵・即非、張り交ぜの小屏風。こら、うちの旦那の檀那寺が兵庫にございましてな、この兵庫の坊主のえらい好みまする屏風じゃによって、表具へやって兵庫の坊主の屏風にいたしました。と、かよぉお伝えを願います。」

と、「金明竹」に、刀の柄の材料として出ています。この猛烈な早口の言い立てですが、嘘やでたらめはまったくありません。「落語は丁稚の耳学問」とはよういうたもんです。

金明竹
金明竹

posted with amazlet at 13.10.16
スロウボールレコーズ (2013-04-24)
柳家喬太郎 名演集2 金明竹/錦木検校
柳家喬太郎
ポニーキャニオン (2008-05-21)
売り上げランキング: 76,478

【歳時記と落語】聖地巡礼

10月14日は「体育の日」でしたが、これは所謂「ハッピー・マンデー制度」による祝日の移動のおかげです。法律には「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」てな大層な趣旨が書かれていますが、要するに、1964年10月10日に開会した「東京オリンピック」を記念したもんです。
翌15日は、イスラム教の祝日「ハリラヤ・ハジ」です。この日は羊や山羊などの家畜を神への生贄として捧げることも行われますのんで、「犠牲祭」とも言われます。なんでそんなことをするのかといいますと、よっぽど昔の話ですが、預言者イブラヒームというお方が、息子・イスハークを生贄にしなければならない夢を見たんですな。イブラヒームは悩んだ挙句、その夢のお告げに従うこと、つまり息子を殺すことを決意します。イブラヒームがイスハークを殺そうとした瞬間、神がイブラヒームに羊を与え、イスハークの代わりの生贄をするように命じられたというんですな。
 なんやどっかで聞いた話やとお思いの方もあるやも知れませんな。キリスト教のアブラハムとイサクの話そのまんまなんですな。それもそのはず、ご存知の方も多いかも分かりませんが、イスラム教とキリスト教、それからユダヤ教は、いずれも同じ神を崇め、その神との契約に基づく信仰なんです。ですから、所謂「旧約聖書」は、それぞれ重みが違うとはいえ、この三つの宗教に共通の経典となっているんです。
 しかし、「ハリラヤ・ハジ」は文字通りには、「巡礼者の祝日」ということで、日本語で言いますと、「聖地巡礼祭」ということになります。イスラム教徒は、一生に一度は聖地に巡礼するという決まりがありまして、巡礼の付きも決まっております。「ハリラヤ・ハジ」はその最終日を祝う日なんですな。
 「聖地巡礼」というと、最近はやや意味合いの違ったサブカルチャー的な意味合いの方が有名になった感もありますが、昔から日本人は「聖地」をめぐってきました。イスラム教徒は異なりますが「巡礼」というのは行われたきました。日本の場合、それは「願掛け」というような側面が強いようにも思われますな。
 落語にも「巡礼」は登場します。
 さる大家の若旦那、歌舞伎が好きで、月に三日は休むというような役者よりも余計に小屋に出入りするようなありさまです。あるとき、珍しく若旦那が帳場へ坐って店番をしておりますと、そこへ巡礼の親子連れがやってまいりました。
すると、若旦那、
「見れば見るほど可愛らしい巡礼の子。して、国は?」
子供は正直なもんです。
「大和の郡山」
「なに、大和の郡山? そんな筈はない。阿波の鳴門じゃろう」
「いえ、大和の郡山」
「まだ言うか!」
若旦那、ゴンと子供を殴ります。子どもは泣く、親は怒る、当たり前ですな。親旦那が慌てて奥から出てきまして、何ぼか包んで謝りまして事なきを得ます。
 これ、若旦那は『傾城阿波の鳴門』の生き別れの母子の再開の場面のつもりなんですな。お弓の元に偶然尋ねてきた巡礼の女の子、これが実は生き別れの娘・お鶴。当然お鶴はお弓が母親とは知りません。そこの有名なセリフが「とと様の名は、阿波の十郎兵衛」。それで、芝居のつもりになっている若旦那は、芝居っ気なく応えられたんで怒ったんですな。
 このあとも、若旦那は芝居がかりで親旦那を怒らせてはヒト騒動起します。お馴染みの「七段目」です。
 しかし、実は「七段目」でも桂米團治などが演じる江戸型の《素噺系》ではこのくだりはありません。故・桂吉朝の系統がやっている、三味線や鳴り物がふんだんに入る上方の型である《音曲系》にしかありません。

【歳時記と落語】重陽の菊と酒。一人で飲む酒は・・・

10月8日は寒露、寒さが露を凍らせようとするという意味で、いよいよ涼しさから寒さへと変わっていく頃です。この頃になりますと、菊が咲き始めます。
大阪では、2005年まで枚方市にある「ひらかたパーク」で、「大菊人形」が開催されていました。1910年に「香里遊園地」(今の寝屋川市)で開かれたのが第1回という歴史ある行事でした。もう、大阪の秋というたら菊人形というくらい、馴染みのある行事でしたな。
第3回からしばらく枚方市で開かれたものの、金銭トラブルから1919年からは宇治の菊人形館へ、しかし1922年に菊人形館が焼失してしまいました。そこで翌年、いままで南海電鉄の後援で行われていた堺・大浜の菊人形が、枚方に移設を願い出て開催され、1924年には、その他の施設も整備されました。これが今の「ひらかたパーク」の直接の前身になります。つまり、菊人形こそ「ひらかたパーク」の起源やったんですな。
「大菊人形」は幕を下ろしてしまいましたが、菊人形自体がのうなったわけやありません。市民の手で今も菊人形は行われています。菊人形は百年かけて、まさに、枚方のもんになったわけですな。
菊と言いますと、10月13日は旧暦の9月9日で重陽、菊の節句です。陰陽思想では奇数が「陽」、中でも「九」は「究」であり「陽」の極まったものとされました。それで9月9日は「重陽」なんですな。他の節句も皆、この「陽」の数が重なる日になってますが、どういう訳か、この重陽だけは段々廃れてしもうた。
ずーと、遡って行事を見てみますと、平安時代には、「菊合わせ」というて、菊を愛でつつ歌を詠みおうて長寿を祈ったんやそうです。菊の花を酒に漬け込んだ「菊花酒」や、盃に菊の花びらを浮かべたもんを飲んだり、そんな風習は江戸の頃まではあったとか言います。
勿論、この風習は中国から伝わったもんで、あちらで「菊花酒」というと、菊の花を、葉や茎ごとモチキビとともに醸造して一年かけて作るんやそうです。
菊は、晩秋に寒さや霜に負けずに咲くところから「不老草」と呼ばれ、長寿をもたらすとされたんですな。菊の花を眺め、「菊花酒」を飲むというのも、菊にあやかって長寿を得ようという一種のまじないやったんです。
中国で菊を好んだ詩人というと陶淵明が有名ですが、重陽は唐代には非常に重要な節句とされていたので、唐の人も多く詩を残しております。

蜀中九日  王勃
九月九日望郷臺
他席他郷送客杯
人情已厭南中苦
鴻雁那從北地來

蜀中九日
九月九日、望郷臺
他席他郷 客を送るの杯
人情 已に厭う 南中の苦
鴻雁 那ぞ北地より來たる

九月九日憶山東兄弟  王維
獨在異郷爲異客
毎逢佳節倍思親
遙知兄弟登高處
遍插茱萸少一人

九月九日、山東の兄弟を憶ふ
独り異郷にありて 異客と為り
佳節に逢ふ毎に 倍(ます)ます親を思ふ
遥かに知る 兄弟 高きに登る処
遍く茱萸を挿して 一人を少(か)くを

秋登蘭山寄張五  孟浩然
北山白雲裏
隱者自怡悅
相望試登高
心飛逐鳥滅
愁因薄暮起
興是清秋發
時見歸村人
沙行渡頭歇
天邊樹若薺
江畔舟如月
何當載酒來
共醉重陽節

秋、蘭山に登り張五に寄せる
北山 白雲の裏
隠者 自ら恰悦す。
相望み 試みに登高すれば
心は飛び 鳥の滅するを逐ふ。
愁因は薄暮に起こり
興は是れ清秋に發す。
時に見る 歸村の人
平沙 渡頭に歇む。
天邊 樹は薺のごとく
江畔 舟は月のごとし。
何か当に酒を載せて來り
共に重陽の節に酔ふべし。

どうも、高台に登って酒を飲んだらしい。やや望郷の思いなんかが重なってくるようですな。
しかし、やっぱり酒というのは一人で飲むより、友達と飲んだ方が気分が宜しい。
さて、ある男が宿替えを致しまして、その町内に住む友達が尋ねてきますと、一席の始まりです。
友達が尋ねてきたところ、男は一人で壁紙を貼っております。見かねた友達が、
「なんぞ手伝うことないか」
「何もあらへん、これが終わったら、一杯やろう、坐っててくらたらええねん」
「座布団は?」
「そのへんの包みやったと思うけどな」
友達は座布団を出してやります。
「もう、ほんまに、一服しててや。――いうても火ぃがないねん。火ぃだけおこしといてもらおか」
まあ、自分がタバコを吸うのやさかいね、それくらいならと友達は火を起こしてやります。ついでに薬缶を探し出しまして、火鉢の上へ置いてやろうといたしますが、水壷の水が汚れてるんで、それも入れ替えてやります。
「あのなぁ、湯が沸くまで、うどん屋でうどん言ぅて来てくれる
か。東京の方は引越し蕎麦とか言うやろ。蕎麦好きゃないよってに、鍋焼きうどんにしよ。これで一杯呑めて腹も大きなるやないか」
友達がうどん屋に注文に行って戻ってきますと、ちょうど壁紙も貼り終わっております。
「知り合いから上酒をもろてな、今日は上燗で呑んでもらお。わしがちょっと見
てみよ、……少しまだぬるいかな? ぬるいかも分からんねぇ、……惜しいな。あ、水屋ん中にスグキがはいったあんねん。ちょっと持ってきてんか。あ、おおけはばかりさん。もうねんぼなと食べてや。どないや、少し熱くなったかな?……あぁどんならんなぁ、ちょっと熱いかなぁ。……ちょっと熱いなぁ……。こらいかん、やっぱり上燗で呑んでもらわないかん。……あれ、もうあらへん。大して入らんもんやねぇ。チャポンとしたらすぐ出来る、すぐ出来る」
酒が回って、段々友達の悪口になっていく。
「ハハハハ、お前、子どものとき鬼ごとしたん覚えてるか。お前、みんな帰ってしもうてんのに、ずっと一人で隠れとったなぁ。ぶっ細ぇ工なやっちゃ。
……ちょ、ちょ、待ち待ち。何すんねんな。そっち持って行くなちゅうねん。お前かて呑んだかてかめへんで、せやけど替わりばんこにいかな。ハハハハハッ、嬉しぃねぇ? 何ちゅう顔してんのん? えらい恐い顔してるやん。何か気に入らないことがあるの? そこがお前、気が利かんちゅうねん。機嫌悪いの? 気に入らんことあんねんやったら、何もこんなとこへ居ててもらわんでもえぇねん。去ねいねドアホ!」
「いないでかっ! もぉ二度と来ぇへんわい!」
友達は怒って帰ってしもうた。そらそうですはな、結局男一人でのんどったんやさかい。
「え、お待っとさんで」
「何や、うどん屋か」
「へ。けど、今のお方あれ、うどんの注文に来てくれはったお方と違いまん
のんか? えらい恐い顔して出はりましたで」
「放っとけほっとけ、酒癖の悪い男じゃ」

桂 枝雀 落語大全 第二十九集 [DVD]
EMI MUSIC JAPAN (2003-05-28)
売り上げランキング: 66,233

【歳時記と落語】豆腐の日

10月2日は、語呂あわせで「豆腐の日」やそうです。夏は冷奴、冬は湯豆腐、まあ豆腐自体には特に季節というようなもんはありませんので、語呂あわせでも何でもええんでしょう。
豆腐というのは、中国から伝わったもんです。発明したのは前漢の淮南王・劉安という説がありますが、これは16世紀の『本草網目』に「豆腐之法,始於淮南王劉」とある記述を根拠としておるんですが、実際にはもっと後になってできたもんのようです。
日本に伝わった時期もはっきりしまへんが、少なくとも12世紀の末頃には、文献に「豆腐」の文字がみえることから、平安時代には入ってきていたらしい。しかしながら、豆腐が庶民の食べ物として浸透するのはなんというても江戸時代です。
 江戸時代というのは庶民が食を楽しむようになった時代です。『料理物語』など、数多くの料理書も出版されるようになりました。中でも、素材にこだわった料理書に《百珍物》と呼ばれるもんがあります。卵やったら卵料理ばっかり百種類載せてるんですな。その先駆けになったんが、天明2年(1782年)に刊行された『豆腐百珍』です。これはえらい評判やったらしく、続けて『豆腐百珍続編』『豆腐百珍余録』が出版されてます。
 豆腐の噺というと、「ちりとてちん(酢豆腐)」「田楽食い(ん廻し)」がありますが、これは前に紹介したんで、「甲府い」を。

ある豆腐屋の主人が、店に出てみると、店の者が若い男を殴りつけている。おからを盗んで食べたのだという。そのままで食うようなものでもないおからを盗んだというと、よほどの事情でもあるのだろうと、聞いてみますと、この男、名は善吉と言いまして、甲府の在の者。早くに両親を亡くして伯父夫婦に育ててもらいましたが、一廉のものになって恩返しがしたいと、身延山で願掛けをいたしまして、江戸へ出てまいりました。ところが、浅草寺で財布をすられて無一文になり、つい出来心で、おからを盗んでしまったのだという。
事情を聞いた店の主、境遇に同情し、また同じ法華宗、また店の若い衆が辞めないと行けないということもあって、住み込みで働かせてやることにいたします。
仕事はといいますと、豆腐の行商でございます。
まずは、売り立ての声を教えます。
「豆腐ぃ、ゴマ入り、がんもどき」
 それから三年間、陰日向なくまじめに働きます。愛想もいいし、声もいいというので、お客さんの評判も上々です。
 仕事ぶりに主も喜び、一人娘も年頃とあって、祝言をあげさせます。
 それから夫婦で仕事に励みまして、店はますます繁盛いたしまして、やがて年寄り夫婦は悠々隠居の身の上となります。
 そんな、ある日善吉は、伯父伯母への報告と身延山へのお礼参りを兼ねて、女房をつれて甲府へ里帰りすることにいたします。
 その様子を見た近所のもんが
 「どこまで行くんだい?」
と、聞きますと、善吉が、
「甲府ぃ。お参り、がんほどき」

ビクター落語 七代目 春風亭小柳枝 甲府い、他
春風亭小柳枝(七代目)
日本伝統文化振興財団 (2008-12-17)
売り上げランキング: 423,688
志ん朝復活-色は匂へと散りぬるを ぬ「高田馬場」「甲府い」
古今亭志ん朝
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル (2002-09-19)
売り上げランキング: 115,807

【歳時記と落語】秋といえば芋ですな

10月1日は中国では国慶節。言うてみたら建国記念日ですな。これでなんと一週間丸まる休みです。実に思い切ったことをしますな。制度の違う香港では当日だけが休みやそうです。
それに対して、日本では秋も深まったなぁ、というくらいで、暦では特に節気も何もあらしまへん。まあ、今年は10月5日が旧暦の9月1日、暦の上ではそろそろ晩秋ということになりまっさかいに、一つの節目とは言えんこともないですが。
中秋のときに、「芋名月」という話をいたしましたが、秋というと芋の季節でもありますな。特に関東以北では里芋の収穫が大体このくらいの時期から始まりますんで、所謂「芋煮会」が行なわれ始めます。山形の「日本一の芋煮会フェスティバル」は9月の第1日曜なんでもう終わってますが。
芋煮は大きく醤油味と味噌味の二つがあり、肉も豚か牛かという違いがあるらしい。どうもそれぞれがお互いに他の味付けが受け入れられへんようですな。まあ、雑煮が「すまし」か「白味噌」か、「切り餅」か「丸餅」か、という論争のようなもんです。京阪神は「白味噌」で「丸餅」ですな。
芋というと、サツマイモも里芋同様9月から11月が収穫期です。しかし、収穫後しばらく置いたほうが甘みが増すので、どうしても印象としては晩秋から初冬というイメージですな。
日本でサツマイモが栽培されるようになったんは17世紀の初め頃、青木昆陽が普及に努めたことは、よう知られておりますな。昔は砂糖なんぞは庶民の口にはなかなか入らなんだ。せやからサツマイモの甘さというのは、今我々が思うよりも、えらいもんやった。「甘藷」というのもそういうことがあってのことでしょうな。またサツマイモのことは「十三里」とも言うた。「栗より(九里四里)美味い」の洒落です。
今回は、これらの芋にちなんで、「芋俵」という噺を紹介しましょう。歴代の小さんの得意です。
ここにおりました泥棒三人、さる大店に盗みに入るために一計を案じます。
仲間のうちの一人を芋俵へ入れ、それを店の前へ持っていって、しばらく預かってくれと置いてくる。そのまま日がくれてしまえば、信用ある大店のこと、俵を中へ入れるに違いない。そこで、店が寝静まった頃に、俵の中から出て、二人を引き込む、という算段ですな。
俵を店の中に、というところまではうまく行ったんですが、丁稚が俵を上下さかさまに置いてしまいよって、泥棒は身動きが取れんようになってしまいよった。
そうこうしていると、丁稚と女中がやってきよった。晩飯を食べ損なったんで、芋を一つ二つくすねて、蒸かして食べようというんですな。
俵を破ったらばれるというので、俵の中に上から手を突っ込みよった。さかさになってますから、ちょうど盗人の股ぐらあたりですな。
「あれっ、なんだかこの芋ぽかぽかあったかいよ。焼芋の俵かね?」
「焼芋の俵なんぞ、あるもんかね」
「こっちはへこむ。おかしいや」
「そりゃ腐ってんだよ」
あちこち撫で回されるもんですから、盗人はくすぐっとうてたまりませんが、笑うわけにもいきまへんので、ぐっと堪えます。
下腹に力を入れますと、大きい奴が一つ。
「ブッ」
それを聞いた丁稚が一言。
「気の早いお芋だ」

NHK落語名人選(71) 五代目 柳家小さん 提灯屋・芋俵
柳家小さん(五代目)
ポリドール (1994-12-19)
売り上げランキング: 331,116
談志百席 「芋俵」「新・四季の小噺 冬編」
立川談志
日本コロムビア (2012-08-29)
売り上げランキング: 468,388