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【備忘録】数式をLaTeX記法に変換

仕事やプライベートで文章を書く際に、私はマークダウン・エディタを使うか、googleドキュメントを使うかなんですが、その際に結構な頻度で数式を入力することがあります。

マークダウン・エディタでは当然LaTeX記法で書くわけですが、googleドキュメントでもLaTeX記法で書いて、アドオンのAuto-LaTeX Equationsをつかって数式に変換しています。

かんたんな数式ならば自分で入力しますが、複雑なものだとミスをしたくもないので、できることならばコピー&ペーストで済ませたい。しかし、そうそう数式をLaTeX記法で記してくれているサイトに出会えるとは限りませんし、PDFなどから数式を起こしたいという場合もあります。

そうしたときに使うのがMathpix Snipです。

iOSとAndroidで提供されているMathpixのデスクトップ版で、Windows/Mac/Ubuntuに対応しています。起動しておいて、windows/ubuntuではCtrl+Alt+M、MacはCommand + Control + Mで、キャプチャーモードになるので、数式部分を範囲指定して読み取ると、LaTeX記法に変換してくれます。ただし、サーバーと通信する必要があるので、会社などのイントラネットで通信制限がかけられている場合は、使えないことがあります。

「中国の古典ファンタジー小説を日本語訳で読む」に参加してみた

2017年6月読書会・番外編「中国の古典ファンタジー小説を日本語訳で読む」という立命館孔子学院で行われたイベントに参加してきた。

元々の読書会は、20世紀前半の中国の短編小説を日本語で読むというものだが、今回は番外編ということで、元末明初の『剪灯新話』から「金鳳釵記」(「鳳凰の金かんざし」)が題材。

当日訳文を配布する(これは明治書院のものだった)ので「準備や予習の必要はありません」ということだが、私はそういうことができない性分なので、それなりに準備はしてみた。

さて、『剪灯新話』は、「牡丹灯籠」の原話を収めることでも有名である。

実際、朝鮮の『剪灯新話句解』などが日本でも広く刊行され、江戸時代の文学に大きな影響を与えた。中でも「金鳳釵記」はよく取り上げられた作品のひとつである。

江戸時代の貞享4年刊になる『奇異雑談集』所収「妹の魂魄妹の体をかり夫に契りし事」は、この「金鳳釵記」の翻訳であるし、浅井了意の『伽婢子』所収「真紅撃帯」は翻案である。より新しいところでは、田中貢太郎の翻案などもあり、これは青空文庫で読むことができる。『奇異雑談集』所収作と『伽婢子』所収作は、高田衛 編・校注『江戸怪談集』(岩波文庫)に入っているので、これも入手は難しくない(たまたま別の要件で既に入手済みだった)。

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訳文は平凡社東洋文庫のものが手元にあるので、これを持っていくこととして、本文は読まずに解説のみ目を通す。

次に原文であるが、ネットで検索すると、たまたま早稲田大学蔵の『剪灯新話句解』の和刻本が見つかった。慶安元(1648)年、京の林正五郎の後印、「逍遥書屋」の印が入っている。つまり坪内逍遥旧蔵のものである。ただ、これだと字が判別しづらい部分や文の切れ目に迷う部分もあったので、東京大学東洋文化研究所所蔵漢籍善本全文映像資料庫から中國短篇小說集所收の「金鳳釵記」を入手して参考にした。

流石に明代の文章だけあって、セリフや説明など詳しく書かれているが、ガチガチの文言であること、年代、場所、人物の説明から始まり結語で終わるという基本的なスタイルなどは、六朝志怪・唐代伝奇以来の伝統を継いでいる。

訳文の解説や『句解』の中にも書かれているが、「金鳳釵記」はその話の大筋そのものも、唐代伝奇の陳玄祐「離魂記」に拠っている。この「離魂記」は、元の鄭光祖の雑劇倩女離魂』の題材となっているし、宋の禅僧・無門慧開の手になる公案集である『無門関』にも「倩女離魂」と題して取り上げられているから、『剪灯新話』成書時でもかなり人口に膾炙していたはずである。

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この「離魂記」からの系譜の中で、「金鳳釵記」に特有なのが、死んだ姉が妹の体を借りる、という設定である。

ヒロインである興娘が死んだ後に、戻ってきた許嫁・興哥の元をある夜、興娘の妹・慶娘が訪れて上を結ぶ。夜になると慶娘が訪れて明け方に帰るということが一月半ほど続き、二人は駆け落ちする。一年の後、慶娘の提案で実家に戻ることにする。興哥は近くで船に興娘を待たせて実家に詫びを入れに行く。すると慶娘はこの一年病に伏しているという。人をやって船を確かめると、そこには誰もいない。そこで突然慶娘が起き上がり、興娘の声音仕草で、冥界の情けでこの一年興哥と夫婦として過ごさせてもらったが期限か来た。どうか妹を興哥と添わせてほしいと訴える。

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倩女離魂」までは一人の女性が二人に分かれて、一方は男ともう一方は実家で病の床に伏しているのである。

興娘が慶娘の姿をずっと借りていたという解釈が一般的だが、果たしてそうかと思った。興哥は十五年興娘に会っていない(戻ったときにはすでに棺に納められている)。そして興哥以外に、情を交わしたこの女を見た身内はだれもいない。そして一般に女性がそうそう男に姿を見せたいということから考えて、興哥は慶娘とほとんど会っていないはずである。実際、興哥は名乗られるまで夜中に尋ねてきた女が誰だかわかっていない。

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だとすると、慶娘だと名乗った女が実は興娘そのものでも分からないのではないか、と思った。

それまでの作品では、駆け落ちした女は臥せっていた女と一つに重なるのに対して、「金鳳釵記」にはその場面がないのもそう考えれば納得がゆくし、無理はない。もっとも、慶娘が少なくとも駆け落ちから1年の間は、病で臥せっているので、何らかの形で興娘がこの世に現れるのに慶娘の「力」を借りていることは確かであろうが、同じ姿をしていたと考える必要は必ずしも必要ないのではないかと思う

もちろん、従来通り、興娘が慶娘にとり憑き、その後「離魂」した、或いは慶娘の姿を借りていたとしてもおかしくはない。

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しかし、この女性が積極的で主導権を握り、男は状況に流されるというのは、才子佳人小説の伝統的な構図と言えばそうなのかもしれないが、当時の文人にとっては理想的な「恋愛」の姿であったのだろうか。それとも妓女とのやり取りの投影と言われるように、そういう気風のいいお姐さんに振り回されるのが文人の常だったのだろうか。

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さて、古典小説らしく典故を踏まえた表現はたくさん出てくるのだが、「閉籠而鎖鸚鵡、打鴨而驚鴛鴦」というセリフがある。鳥づくしの喩えだが、これについて今回の読書会の参加者から、タイトルに絡めているでしょうかという問いかけがあったが、それはそうした配慮があったと考える方が自然ではないかと思った。他にも表現は色々あるわけで、その中から鳥についての言葉を2つ持ってきたのは、金鳳釵との関連を考えなくては説明がつかない。

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それから、最後近くで、興娘の憑依がとけた慶娘が、「慟哭而仆于地、視之、死矣」とある「死」だが、「死」という字は、興娘の憑依した慶娘のセリフ中の「妾之死也、冥司以妾無罪」というところにしかなく、他の場面で興娘に対して「死ぬ」という意味で使われているのは地の文・セリフともに「終」であり、興哥はセリフの中で父母の死に対して「卒」を用いている。一応、身分に拠って使い分けがあり、一応年少の場合は「死」を用いるというのはあるが、興娘と慶娘で使い分ける必要があるのはどうかは私は詳しくはないので分からないが、流れから考えて、ここは「気を失った」と解する方がいいのではないかと思った。


とりとめはないが、思いついたことを書き連ねた次第である。

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Linux(Ubuntu)でPSPPを使う場合の注意点

PSPPは、IBMのSPSSのクローンとも言えるフリーの統計ソフト。ubuntuのソフトウェアセンター(ubuntuソフトウェアなど)からインストールすることができるのだが、現状ではどうやらver0.8.5になってしまうらしい。現在の最新版は0.10.4、安定版は0.10.2のようだ。

ソースコードは常に最新版が公開されているから、そこからビルドする手もあるが、これはやや敷居が高い。

Adam Zammit氏の「PSPP Stable Releases」というPPAが最新版(と言っても安定版だが)ビルドを公開しているので、これをリポジトリに追加登録することで、新しいPSPPを利用可能になる。

 sudo add-apt-repository ppa:adamzammit/pspp

 で、リポジトリにPPAを追加し、

sudo apt-get update

sudo apt-get upgrade

で、リストのアップデートとパッケージのアップグレードを行えば最新版になる(これはすべてのパッケージに対して行われるので、他のアプリケーションなども更新される)。

 

まだ、PSPPをインストールしていない場合は、「sudo apt-get upgrade」の代わりに、

 sudo apt-get install pspp

 を実行すれば、最新版のPSPPがインストールされる。

元宵とは異界〜【転載】『水滸伝』の好漢像と「異界」〜

元宵節は旧暦の1月15日、その年最初の満月の夜の祝です。それは古来、日常ならざる「異界」でした。そこに触れた過去記事を転載しておきます。

今更あらためて言うまでもなく、『水滸伝』は梁山泊に集う百八人の好漢――別の言葉で言えば江湖緑林の徒の活躍を描いた物語である。このような「江湖」に生きるものたちを主人公とした物語は、中国においては非常に根強い人気がある。『水滸伝』以降も、清代の『児女英雄伝』、民国時代の『蜀山剣侠伝』などがあり、そして現在も、梁羽生、金庸、古龍らより始まる〈新派武侠小説〉、またそれらに基づく映画やドラマが華人文化圏において隆盛を極めている。

ところで、そのような民間英雄を描く物語は、他の国々でも読み継がれている。その最も知られたものの一つが、イギリスのロビン・フッドであり、あるいは我が国においては鼠小僧がそれに当たる。そして、実はこのロビン・フッドと鼠小僧には共通点が認められる。まず、彼らが「義賊」と呼ばれることである。そしてもう一つは、その「義賊」としての姿が定着するにいたった経過が非常によく似ているということである。

ロビン・フッドは、『ロビン・フッドの武勲』などのバラッドと呼ばれる歌物語の中で義賊としての姿を作りあげられ、ハワード・パイル『ロビン・フッドの愉快な冒険』などの児童小説に結集された。一方、我が国の鼠小僧は単なる盗賊から、講談『緑林五漢録――鼠小僧』や歌舞伎『鼠小紋春君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』によって義賊へと変身し、大佛次郎の『鼠小僧次郎吉』に結晶された。南塚信吾は『義賊伝説』において、「鼠小僧」が実際は単なる盗賊であったと述べた上で、以下のように述べている。

事実はどうあれ、重要なことは別にある。すなわち、鼠小僧が義賊として民衆にイメージされたという事実である。そのこと自体がひとつの歴史的事実なのだ。勿論、そのイメージの作成者は民衆自身と言うより、講釈師であったり、戯曲作家であったり、小説化であったりした。しかし、そのイメージが民衆の正義感と照応するものであったとき、民衆はそのイメージを共有し、自分のものにした。

つまり、大衆芸能の段階で民衆好みの「義賊」へと変化したのである。

この「講談や演劇から小説へ」という流れは『水滸伝』の成立過程とも類似点が認められる。

『酔翁談録』によれば、南宋期には魯智深や武松の物語が講談として語られていたことが伺え、元代の演劇脚本「元曲」の中にも「黒旋風双献功」「梁山泊李逵負荊」など幾つかの水滸物語が存在する。また、明初にも「豹子和尚自還俗」などの雑劇がある。それら先行の物語を基にまとめられたのが章回小説『水滸伝』である。また、実際の宋江集団は宣和の初め頃に蜂起した民衆叛乱であり、北宋によって平定されたことが『宋史』張叔夜伝に見える(実在の宋江ついては宮崎市定『水滸伝――虚構のなかの史実』に詳しい)。

ならば、梁山泊の好漢も戯曲・講談の段階において民衆好みの「義賊」に形作られ、その姿を『水滸伝』の中に留めているということが出来る。

さて、以下では、後の考察を円滑に進めるためにも、『水滸伝』中の好漢達の姿をごくごく簡単にではあるが、確認しておくことにしたい。

例えば、九紋龍史進の場合、史家村の為に小華山の朱武一党と闘い、彼らの義侠心に感じて許してやり、交流するようになるが、使いの王四が酔いつぶれて、朱武の手紙を李吉に盗まれたことから、盗賊として官憲に追われる身となり、李吉を殺すことにもなった。その後、魯達と出会い、困っている父娘に金を与えて助けてもいる。また、その魯達が逐電したのは、父娘を助けて「悪人」鎮関西を殺したためであった。

その他、林冲・宋江・武松なども、同情すべき理由によって殺人などの罪を得て、犯罪者として追われ、江湖に生きることになるのであるが、彼ら自身は決して読者にとって「悪」と思えるような行為はしない。更に、晁蓋が呉用・公孫勝らとともに生辰綱を奪うのは、それが「不義の財」であるからだと述べられている。

第四十五回では、破戒僧裴如海が人妻潘巧雲と通じ、その夫楊雄の義弟石秀によって殺されるという「堕落した聖職者を挫く好漢」というエピソードが語られる。ここの石秀の殺人は義兄楊雄のことを思ってのことである。

また、総体としての梁山泊は、皇帝に叛することはなく奸臣を討つために行動し、反対者がいたとはいえ招安を受けて帰順し、遼や方臘の討伐を行う。

更に、第七十五回、招安を提案するところで御史大夫崔靖は次のように奏上している。

私の聞きおよびますところでは、梁山泊では替天行道の四字をしるした大旗をかかげ出しておりますとのこと。これは民に誇示せんがための術索ではございましょうが、民心はすでにそれになびいておりますこととて、兵を加えることはよろしくございません。(駒田信二訳『水滸伝』)

さて、ここで次の定義を見ていただきたい。

(a)不当な罪ゆえにアウト・ローになった。

(b)悪を正す。

(c)豊かな者から奪い、貧しい者に与える。

(d)正当防衛または正当な復讐以外には殺人をしない。

(e)許されるならば共同体に迎えられる。

(f)民衆に賞賛され、助けられ、支援される。

(g)裏切りによってのみ死ぬ。

(h)姿を見せず、不死身である。

(i)国王や皇帝には敵対しない(悪いのは在地の支配者、聖職者である)。

これは、南塚が『義賊伝説』において十九世紀ハンガリーの義賊ロージャ・シャーンドルについて検証する際に用いている、E・ホブズボームがまとめた「民衆の抱く義賊のイメージ」の定義であるが、そのホブズボームは、義賊(ないし匪賊)は農民社会から追いやられてその周辺に生きるものであり、貧しさや不公平、人口過剰によって発生する、とも述べている(斎藤三郎訳『匪賊の社会史』。なお、先の定義文は、南塚が書き直したものが簡潔なので、そちらを用いている)。端的に言えば「民衆の持つイメージとしての義賊」とは、農民社会を基盤とした社会において、何らかの理由によってその共同体周辺にはみ出した者であり、公権力にとっては犯罪者ではあるが、民衆自身にとっては味方であり、不平の代弁者である存在、ということである。よく似た中国古来の概念に「義侠」や「仁侠」があるが、これらはは必ずしも「アウト・ロー」という実態をともなうわけではない。つまり「義賊」の方がより限定的概念であると言える。

先に挙げた好漢の例とホブズボームの定義を比較すれば、(a)から(e)までは、問題なく『水滸伝』の好漢にも該当すると言ってよく、(f)や(i)も大筋では当てはまっている。つまり、好漢はおおむね「民衆の持つ義賊のイメージ」、言い換えれば、共同体から放逐されつつも、民衆が共感できる代弁者たる「義賊」として描かれているということである。

それでは、義賊というイメージをもった彼ら好漢の活躍する「場」について、以下で少し考えてみたい。

まず、第一の好漢九紋龍史進が、史家村を追われた後に王進を訪ねて旅に出て、第六回において追い剥ぎに身を落として花和尚魯智深と再会するのは赤松の林の中であった。そして、その史進は朱武らとともに少華山に立てこもることになる。その他、孔明・孔亮は白虎山に、魯智進・楊志は二龍山に山塞を構え、桃花山には李忠・周通がおり、後に梁山泊に合流する。これ以外にも山塞を構えつつも梁山泊に合流した好漢たちは少なくない。そして何より、広大な「水」に囲まれた要害の梁山泊も巨大な山塞である。

この他に気になる場所として、何度も登場する小旋風柴進の屋敷、梁山泊の情報収集基地としての酒店、『隋唐演義』とも共通の騒動の場「元宵の灯籠祭り」、そして邂逅の場としての「市」などがある。

さて、山と言えば古く伯夷叔斉が首陽山に隠れた故事が思い起こされる。これについて安藤信廣は「中国文学と異界」において「首陽山はなるほど周王朝の範図の中に入っているが、しかしそこは俗なる日常の空間とは次元をことにする異界なのである」(「新しい漢文教育」二十一号)と述べているが、それは極めて民俗的心理の反映であろう。ならば状況的に同じ「山塞への立てこもり」も、民俗的心理に裏打ちされているのではないだろうか。

ではここで、安藤は全く触れていないが、民俗学などにおいて「異界」とはどのようなものであるかを考えておきたい。

赤坂憲雄『異人論序説』によれば、共同体の内部は秩序に支配された可知的領域であり、石・樹木や川・湖といった自然の地形、あるいは石柱・門などの人為的標示によって隔てられた境界外は、共同体内に穢や病をもたらす不気味な禁忌される混沌とした時間・空間であるという〈秩序・混沌という二元的世界認識〉は定住農耕民には普遍的に見いだされるという。そして赤坂は、次のようにも述べている。

内部(うち)へむけての平等と外部(そと)へむけての封鎖、この、構造そのものが孕む二重性につらぬかれつつ、共同体はそれぞれに、多かれすくなかれ“局地化された小宇宙”を形成している。全社会がそうした群小のミクロ・コスモス(小宇宙)の集合体として構成されるとき、諸共同体のはざまには、おのずと共同体の規制と保護のおよばぬ一種の社会的な真空地帯がうまれる。

つまり、この共同体の〈外〉なる「一種の社会的な真空地帯」こそが「異界」であり、赤坂は「原生林や荒野といった人跡もまれな社会的真空地帯は、『匪賊』たちの跳梁する空間であった」とも記している。これは史進・魯智進再会の場に見事に符合している。それはともあれ、生活圏の周辺部に位置し、時に分け入ることはあっても、基本的に生活の場とはならず、信仰の対象ともなる山岳地帯も「社会的な真空地帯」という点においては同様であり、その「無縁」性ゆえに、山は「異界」となりうるのである。伯夷叔斉の故事はそれを物語っており、安藤の言うところもそのことを指している。

なお、ここでいう「共同体」とは、必ずしも物理的空間的なもののみをではなく、人々の関係や意識という意味における「共同体」をも包含することに注意すべきである。その「異界」に住まう人々、これを「異人」と称せば、「異界」がすぐれて関係的な概念である以上、「異人」もまたすぐれて関係的であると言える。

また、赤坂は〈内〉と〈外〉、〈遍歴=漂泊〉と〈土着=定住〉という観点から、「異人」を次のように分類している。

①一時的に交渉を持つ漂泊民

②定住民でありつつ一時的に他集団を訪れる来訪者

③永続的な定着を志向する移住者

④秩序の周縁部に位置づけられたマージナル・マン

⑤外なる世界からの帰郷者

⑥境外の民としてのバルバロス

②には行商人や旅人が当てはまるが、彼らは訪問先の人々にとっては「異人」であるが、自分たちの郷里では〈内〉なるものである。それは「異人」が関係的存在であり、関係的概念であることの証左であろう。

さて、中国社会も古来より、農耕を基盤とする定住社会である。そして、秩序・混沌という二元的世界認識が定住農耕民には普遍的に見いだされるのならば、赤坂の述べる「異界」「異人」の概念は、中国社会にも援用できるはずである。さらに、山や林といった好漢の「棲処」が民俗的心理において妥当性を有しているのであれば、その他の場についても、「異界」「異人」の概念を用いてその象徴的意味を説明することは可能ではないのか。その考えに従って、以下、幾つかの〈気になる場〉について解析を試みたいが、まずその前に、『水滸伝』の好漢達が「異人」であるのかを検証しておく。

彼らは非常によく旅をする。この時、彼らは間違いなく②の「異人」である。そして赤坂は④の「異人」について、「秩序の周縁部に疎外された者、または“社会的欄外性”(M・メルロー=ポンティ『眼と精神』)をおびた者はしばしば、潜在的遍歴者という象徴的な、ときには現実的な役割をあたえられる」と述べて、狂人・非行少年・犯罪者・アウトサイダーなどを例として挙げている。また、先の引用には「」社会的真空地帯は、『匪賊』たちの跳梁する空間であった」ともある。ここに挙げられたものたちの形象は、先に確認した「義賊」にも共通するものであることは、今更説明するまでもないだろう。すなわち、それはまさに『水滸伝』の好漢達の姿でもある。

いや、そもそも「江湖」「緑林」という呼称そのものが、彼らの「異人」性と、その〈棲処〉の場の「異界」性を表している。「江湖」「緑林」は、明らかに農村共同体外――諸共同体のはざまに存在する、原生林や荒野といった人跡もまれな社会的真空地帯に他ならない。

ではいよいよ〈気になる場〉について見てみることにしよう。

まず、復習的に梁山泊についてみると、広大な湖と嶮しい山という二重の「境界」に守られた要害の山塞こそが梁山泊の正体である。人を寄せ付けないその姿は共同体から離れた社会的真空地帯であり、公権力も及ばない無縁の地、所謂「アジール」である。好漢達が集うのも宜なるかな、である。

また第十一回には、人や金品、或いは情報を山塞へ運ぶという機能を有した朱貴の酒店が、谷川に沿い湖に面して建てられて登場する。

ところで、日本には「中宿」という峠のあちらと此方が互いに直接接触することなくものをやり取りする機構があった。その場所が峠であるのは、そこが境界という属性を有しているからである。峠には霊が現れると言われ、中国の冥界遊行譚や再生譚にも、境界として「峠の茶屋」的存在が登場することが知られている。

街道を進んだ果てに現れる、湖を背にして建つ酒店はまさに人界の尽きるところである。さきに川や湖が境界として位置づけられることは既に述べた。つまりこの酒店は「中宿」や「峠の茶屋」のような役目を担って、人々の行き交う「こちら」側と、梁山泊という「異界」側との境界線上に建っているのである。そうしてみた場合、第三十九回で宋江が水辺の酒楼で叛詩を壁に賦すというのも、それによって身を危うくし、結果的に梁山泊に身を寄せることになることと考えあわせると、何とも示唆的である。

次に、柴進の屋敷を見てみよう。その物語構造上の役割については既に述べたが、柴進の屋敷は多くの好漢達を匿い、好漢達の出会いの場として作用している。しかし、並大抵の存在では、官憲に追われるところである好漢達を匿い助け続けることは不可能である。そこで、柴進が前王朝の一族であるために宋王朝より一種の治外法権を約束されているという設定が生きてくる。この公権力によって認められた〈外〉的特権によって、柴進の屋敷は一種の「アジール」性を獲得しているのである。その公権力が例外的に認めた「アジール」という点においては、江戸時代に女性からの離婚の手段として保証された鎌倉東慶寺・上野満徳寺――所謂「駆込寺」に近いと言えるかも知れない。

さて、柴進の屋敷は「異界」とは言っても物理的空間的には共同体の外にあるわけではなく、そこは共同体の住人あり地主でもある柴進の生活の場でもある。それが「異界」として機能するのは、「異人」や「異界」と言った概念が、関係的概念であるためである。よって、現実の場所は共同体内部にあったとしても、「異界」性を保持することは十分にあり得るのである。次にあげる「市」はその好例である。

第四十四回、公孫勝を探して旅に出た戴宗は、途中で出会った楊林と共に薊州城に入る。その路上で、戴宗・楊林・石秀・楊雄が邂逅する。その路上は、楊雄登場の描写に「原來才去市心里決刑了回來」とあることや、戴宗が石秀をすぐに酒屋に連れ込んでいることから「市」、または「長街」とあるから「市」にほど近い通りとでも言うべきところではないかと考えられる。以下、そこを「市」として話を進める。

ここでまず、登場人物四人について見ておくと、戴宗と楊林は江湖緑林の徒であり、旅人であって、紛れもなく「異人」である。次に、楊雄は首切り人であるが。罪人が「けがれ」として「聖別」され、その処刑という「けがれ」に関わるものも逆説的に「聖別」されて共同体外あるいは周縁部に関係づけられるものである以上、彼もまた潜在的な遍歴者という「異人」の顔を持つ。最後の石秀は薪売りであり、故郷に帰れなくなった行商人であり、赤坂の分類で言えば②及び③の「異人」と言える。なお、ジンメルは『社会学』所収「異人論」において、商人は如何なる場所に置いても異人として登場すると述べている。この石秀の「商人」としての「異人」性は「市」の「異界」性にも関わってくる。

かの地から此方へと商品を運ぶ商人は共同体の内外を往来するものでありその性質上、共同体とは異質なものであり、彼らによって執り行われる商業は本質的に共同体との間に「無縁」性を保持する。商業の原初形態である暗黙交易において、一方の共同体からは他方が正体不明の妖怪めいたものとして考えられていたことが、それを何よりもよく物語っている。そして古来「市」は辻や川辺や原野といった「真空地帯」に置かれたことは、「市」という場の「無縁」性の証である。その性質は「市」が共同体内部に置かれた場合にも保持される。網野善彦は『増補 無縁・公界・楽』(平凡社一九八七年)において、

「戦国時代には、市に集住するようになった人々は、自らを外部との縁の切れた『公界』と称し」たと述べている。また西洋においても「市」は絶対中立地であり、あるいは戦争の最中にも「市」は開かれ、中立地として維持されていた。その意味するところは、「市」という空間が「無縁」の「異界」であったということであり、赤坂は「市という〈無縁〉の場もやはり、ある種アジール性を帯びた空間であった」と記している。李逵や『隋唐演義』で秦叔宝が騒ぎをおこす「元宵の灯籠祭り」、あるいは第七十二回の奉納相撲の騒ぎの一幕などの「祭」も、そこが「ハレ」の場として位置づけられることからすれば、この特質――〈無縁〉の場・アジール性を帯びた空間・公界としての「異界」という性質――は、ほぼ同様であると言っていいだろう。

ともあれ、絶対中立のアジールである「市」を、栗本慎一郎は「すべての共同体においてそうであったように、市場の地は非日常の地であり、他界への出入り口でもある」(『光の都市 闇の都市』)と述べている。そのような非日常の空間である「市」が、非日常の存在である「異人」たちの邂逅の場となることは、その非日常的「事件」に心理的リアリティ、あるいは説得力をもたらすことになる。また、「他界への出入り口」という要素は、ある場合には〈内〉なる「異人」を〈外〉へと誘うことを暗示しうる。そして、「酒店」「柴進の屋敷」といった「異界」も異界そのものではなく、むしろ異界との接点であるが故に、その作用としては同質のものを持っていると言ってよいだろう。つまり、潜在的な遍歴者が、顕在的遍歴者へと変じること――つまり「異人」として顕在化することを示しうるであろう。

Z4 tabletからubuntu16.04に日本語入力

ちょっと困ったことが1つ解決したのでメモしておきます。

結論

Xperia Z4 tabletからubuntuにリモート接続した場合、全角半角切り替えは、左シフト・キー

今のところ、Xperia Z4 tabletから自宅のPCに接続するには、接続が比較的簡単なのと、反応がよいことからTemviewerを使っています。

PCをサーバーにしてしまって、というのはよく分からないので、この方法を取っています。

さて、自宅PCがwindowsの場合は、Z4 tabletの「半角/全角」キーでの日本語入力切替に問題がなかったのですが、ubuntuの場合、不都合が生じました。

Z4 tablet側で「半角/全角」キーを押して日本語入力にすると、たとえば「見出し」と入力すると、確定した瞬間に「ししし」になってしまうのです。

Z4 tabletのキーボードであるBKB50のキー配列が自宅PCと異なっているからかもしれません。あるいはZ4 tablet側からの入力とmozcの入力が干渉するのかもしれません。

そこで、Z4 tablet側を常に半角入力にして、ubuntu側のmozcで「半角/全角」を制御すると、半角英数と全角日本語が問題なく打つことができました。「全角入力→F10で半角変換」は活きているのですが、文字はともかく半角スペースのときに困まります。

パネルのmozcアイコンから変換モードが変更できるます。しかし、文字を打っている途中で一々画面をタップするのは面倒くさい。できることなら避けたい。

いや、絶対にいやだ。

そこで、いろいろ試した結果、左シフトの・キー単独押しで半角/全角が切り替えられることに気がつきました。

奮戦!Rstudioサーバー構築!!

はじめに

EeePC 1001HAにxubuntuをインストールした後で、ASUS ZenBook UX31Eにもlinuxを入れようと考え、挑戦してみました。

最近流行のvagrantを導入しようと思ったのですが、色々と躓いて、virtualbox単体で仮想マシンを構築してみたのですが、これが遅い。 一番利用頻度の高い環境として、xperia Z4 tableからteamviewerでリモート接続ということを想定しているので、ちょっと実用に耐えない。

そこで、パーテンションを切って、Windows10とubuntu16.04のデュアルブートにしてみました。

メインは、R言語とRStudioを使うことなのですが、これはWindows環境だと色々と文字コードの関係で不都合が起こることを回避したいからです。 しかし、ubuntuというかlinuxはlinuxで色々と面倒くさいことが起こります。

RStudioに日本語入力がうまくいかないということがあります。これに関しては、デスクトップ版特有の現象なので、RStudio serverを導入することで回避できました。

次に、Rパッケージをインストールする際に、依存関係にあるlinuxパッケージがインストールされていないとエラーになるという厄介な問題がありました。この解決に一番悩みました。google検索の力を借りて、何とか目途が立ちました。

そこで、情報をまとめておきたいと思います。

Rのインストール

最新バージョンをダウンロードするように変更

いきなりダウンロードすると、古いバージョンがダウンロードされるので、最新版がダウンロードされるように変更します。1 2

ターミナルを起動し以下のコマンドを実行します。

sudo echo “deb http://cran.ism.ac.jp/bin/linux/ubuntu xenial/” | sudo tee -a /etc/apt/sources.list

16.04なので「xenial」になっています。他のバージョンであれば、

cat /etc/lsb-release

でバージョンを確認し、「xenial」の部分を

DISTRIB_CODENAME=●●●●

の●●●●の部分に書き換えます。

公開鍵の登録

以下の2行をターミナルで実行します。

gpg –keyserver keyserver.ubuntu.com –recv-key E084DAB9
gpg -a –export E084DAB9 | sudo apt-key add –

Rのインストール

以下の

sudo apt update
sudo apt install r-base r-base-dev

以下の2行をターミナルで実行します。

これで、R言語がインストールされました。ターミナルで「R」とコマンドを実行すれば、ターミナル上でR言語が走りますが、RStudioサーバーを導入するので、ここでRを起動する必要はありません。

RStudioサーバーのインストール

ファイルをダウンロードしてインストールすることも可能ですが、基本的には公式ページに従うのが一番簡単です。

sudo apt-get install gdebi-core
wget https://download2.rstudio.org/rstudio-server-1.0.136-amd64.deb
sudo gdebi rstudio-server-1.0.136-amd64.deb

RStudioサーバーへのアクセス

ブラウザで、

http://localhost:8787

にアクセスすれば、ユーザー名とパスワードの入力画面になるので、ubuntuに設定しているユーザー名とパスワードを入力します。

「localhost」の部分を割り当てられているIPアドレスにすれば、RStudioをインストールしたPCは勿論、PCにアクセスが許可されてる他のPCからも利用が可能です。

依存パッケージのインストール

windowsとことなり、依存するライブラリを入れていないと、パッケージがインストールできない事態が発生します3 4

例えば、

The OpenSSL library that is required to
build git2r was not found.
 
Please install:
libssl-dev (package on e.g. Debian and Ubuntu)
openssl-devel (package on e.g. Fedora, CentOS and RHEL)
openssl (Homebrew package on OS X)
and try again.

のようなかたちで、必要な依存ライブラリが警告されます。

今回、インストールしたのは以下のとおりです。

  • httr, RCurl > sudo apt-get install libcurl4-openssl-dev

  • RMySQL > sudo apt-get install libdbd-mysql libmysqlclient-dev

  • maptools > sudo apt-get install libgeos-dev

  • XML > sudo apt-get install libxml2-dev

  • libcurl > sudo apt-get install libcurl4-gnutls-dev

  • libssl-dev > sudo apt-get install libssl-dev

  • igraph > sudo apt install radiance


今日不站出来,明天站不出来

3月18日から、「両岸サービス貿易協定(Cross-Strait Agreement on Trade in Services :兩岸服務貿易協議)」の強行採決に反対する学生たちによって、台湾の立法院(国会に相当)が占拠されています。
なぜ、こういう事態にいたったのかについては、以下の「今回の国会議場占拠事件について」に詳しく説明されいます。

簡単に言えば、内容が台湾にとって不利なものが多く、台湾の産業が大陸に飲み込まれる懸念があること、採決にいたる審議などが秘密主義的で、民主主義の基本に反していると思われること、この2点で、学生たちは反対しています。
学生たちのスローガンも「退回服貿」「反対黒箱」です。

今回、旅行の時期がこの大事件に重なったので、まとめておきたいと思います。

学生たちは、立法院の議場を占拠し、周辺の道路に座り込みをしていますが、概ねその行動は落ち着いたものでした。学生たちは自主的に交通整理や迂回路の指示をしていますし、周辺の店舗は普段通りに営業をしています。

それが、変質しだしたのは、暴走族と思しき連中が参加しだしたのと、行政長官との会談が物別れに終わったあたりかでしょうか。そして、23日の夜、タカ派と見られる学生の一団が、行政院に突入し、長官の執務室で機密文書を荒らす事態に発展しました。

深夜になって、行政院周辺は更に学生達で埋め尽くされ、通行ができなくなりました。

行政院前の幹線道路である忠孝東路も学生たちに占拠され通行できなくなりました。
政府はこれに対して、大量の警官隊を導入、24日未明には放水車も導入し、武力鎮圧を行いました。

これに対し、学生たちは立法院に通じる道路を、椅子や簡易トイレを用いて封鎖して対抗しました。

24日昼には、小康状態となり、学生たちは、立法院占拠と座り込みに回帰しました。もともと、立法院を占拠しているグループの多くは、行政院占拠には反対していたようです。

行政院は警官隊によって封鎖されていましたが、午後には最小限の警備に戻ったようです。

立法院の封鎖については、それなりに理のある行為と言っても良かったかも知れませんが、行政院での行いは学生達にとっては不利な材料だと言えるのではないでしょうか。一部「暴徒」と称されても仕方の無い行為だと思います。
現に、警察側の即時武力制圧が実行されましたが、立法院は周辺封鎖が継続されているだけに留まっています。

黄飛鴻~生平の事跡と銀幕上の傳説~

2014年3月25日は、中国南方の民族英雄・黄飛鴻が亡くなってから丁度90年である。奇しくも今年は新作映画「黄飛鴻之英雄有夢」が公開予定である。

そこで、黄飛鴻について、振り返っておく。

かなり以前に、書いた駄文に加筆したものである。

しかし、今となっては、大陸のドキュメンタリーもyoutubeで公開されている。

加えて、彭偉文「スクリーンに生きる英雄–黄飛鴻映画をめぐって」(神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター・年報非文字資料研究 (7), 349-375, 2011-03)という優れた論考もある。

だから、改めて示すほどのものではないだろうが。

実在の黄飛鴻

黄飛鴻は実在の人物である。一名、飛熊(鴻と熊は広東語では同音)。1847年広州南海県西樵に生まれた。父は〈広東十虎〉の一人、黄麒英である。黄麒英は若い頃貧しく、街頭で武芸を売り物にして生活をしていた。ある日、洪家拳の陸阿采に見いだされて弟子となり、十年ほどでその神髄を得て、鎮粤将軍の兵の教練をつとめる。しかし、月に三両六銭という微禄であったため、靖遠街に薬店「寶芝林」を開いた。黄麒英ははじめ息子に学問をさせたく思っており、武術の修行をさせなかったとも言うが、黄飛鴻は幼い頃から父が他界する16歳まで、父・麒英に武術を学び、12歳の頃にはすでに家伝の武術をすべて修得してしまった。また、父の師である陸阿采にも師事したという。更に〈広東十虎〉の一人・鉄橋三の鉄線拳を、その弟子である林福成について学び、宋輝鏜から鉄線拳との交換教授で北派拳法由来の蹴り技の極意を習得した。あまりに素早く絶妙な黄飛鴻の蹴りは、〈無影脚〉と呼ばれた。又、獅子舞の名手で、獅王とも称された。

黄飛鴻は薬店「寶芝林」を父から受け継ぎ、各地を行商で廻った。その頃には「寶芝林」は広州仁安街26号に移転しており、更に黄飛鴻の代になって薬店兼病院兼武館という様相を呈するようになっていた。因みに「寶芝林」とは、夏重民の詩「宝剣出筺、芝草成林(宝剣筺を出ずれば、芝草林に成る)」から取ったもので、英雄いるところ必ず栄えるという意味である。ここで黄飛鴻は多くの門弟に武術を教え、医術で多くの人々を救う一方、南澳総兵に任じられた劉永福に招かれ、〈黒旗軍〉でも武術の基礎を教授した。また一説には、台湾守備を命じられた劉永福に従い、黄飛鴻も台湾に渡って抗日運動に参加していたという説があることも付け加えておく。

なお、黄飛鴻の弟子である林世栄や陳殿標も、各地の軍で教練を勤めた。

〈黒旗軍〉将軍劉永福の元を去った後は、薬業に専念し、民国に入る頃には、民団(民間の自衛組織)の教練を務めていた。しかし、それが後に、長男漢林を失う遠因となってしまう。黄漢林は父に学んだ武芸を生かし、民間の自衛組織・保商衛旅栄の護勇(警備会社のガードマンのようなもの)を務めていたが、同僚のといざこざの末、酒に酔ったところを拳銃で撃ち殺されてしまったのである。
ここで、一つのエピソードを紹介しておこう。民国時代、黄飛鴻は一度香港に渡ったことがある。「寶芝林」の分館を開いていた弟子陸正剛に招かれてのことだった。しかし、陸正剛の弟子がトラブルに巻き込まれているのを知り、解決に乗り出した黄飛鴻は多くの人に怪我を負わせてしまい、広州に帰らざるを得なくなってしまったのである。因みに、林世栄と凌雲階は、逆に広州で敵を得て相手に怪我を負わせ、広州にいられなくなり香港に脱出した。

1923年、広州の商団(商業金融業者の武装自衛組織)が政府の弾圧と強制武装解除に反発しついに反乱を起こした。その被害は仁安街にも及び、「寶芝林」も焼失してしまう。その失意の為か、黄飛鴻も病に倒れる。そして、翌1924年、野において多くの人々に、武術をもって自強愛国を諭し、医術薬術をもって貢献し、為に民衆に愛された黄飛鴻は、城西方便病院で病没した。享年77歳であった。彼の亡骸は弟子の手で広州観陰山の山頂に葬られた。

黄飛鴻の人生は混乱期に生きた人にふさわしい波乱に満ちていたと言えようが、不幸なことに、それは彼の家庭の中にも及んでいた。黄飛鴻は、生涯に四人もの妻を娶っていが、一人目の羅氏は結婚後わずか三ヶ月で病を得て鬼籍には入ってしまった。次に結婚した馬氏は、漢林・漢深の二子を生むが、またも病没。そして、前述の通り、長男漢林は民団絡みのトラブルに巻き込まれて殺されてしまった。三人目に娶った岑氏との間にも、漢枢・漢煕の二子が生まれたが、またもや妻に先立たれてしまう。そして晩年になって、弟子であった莫桂蘭を四人目の妻として迎える。後年、莫桂蘭は黄飛鴻の弟子たちと香港に黄飛鴻武館を設立し、黄飛鴻直伝の洪家拳を継承した。彼女は、1970年代に世を去るまで、武術指導と治療を続けており、まさに黄飛鴻の精神をも受け継いでいた。

さて、黄飛鴻は単に民衆に愛された在野の英雄というに留まらない。実に近代洪家拳の歴史において重要な存在なのである。彼がよくした洪家拳は洪熈官が創始したといわれる拳法であるが、現在伝わる洪家拳はその殆どが黄飛鴻の系統であり、その系統は香港を拠点としている。それには林世栄や凌雲階、馮栄標といった傑出した弟子を育てたこと、そして彼らが莫桂蘭とともに、香港で名を挙げ、多くの弟子を育てた事が大きな影響を与えているのだろう。蛇足ながら、現代香港映画界を代表するアクション指導の劉家良・劉家栄の父・劉湛も、黄飛鴻小説を発表した朱愚斎も、林世栄の弟子であり、現在日本で洪家拳の指導を行っている劉湘穂氏も林世栄系である。

その後の大きな動きでは、1996年に、黄飛鴻の故郷である広東省南海市の西樵山旅游度假区嶺西禄舟村に、彼を記念した「黄飛鴻獅藝武術館」が設立された。黄飛鴻の生家や「寶芝林」が再現されているほか、武術・舞獅・舞龍の表演や指導が行われている。

〈黄飛鴻〉電影

伝説のはじまり

さて、近代武術史上の巨人・黄飛鴻が電影史上のヒーローとなったのは、一つの偶然といくつかの必然によっていると言われている。

そのまえに、前史として、黄飛鴻物語の歴史を見ておこう。  1920年代、武侠・功夫電影が始まったのと相前後して、清代の侠義小説からはなれて、新しい〈武侠小説〉、今日〈旧派武侠小説〉と呼称される一群の小説群が登場する。その中に、南派少林寺の伝説に取材した作品を手がける作家たちが存在する。もっとも初期の作家に、1931年から、清末の『聖朝鼎盛万年青』に取材して南派少林寺『至善三游南越記』『少林英雄決戦記』などを著し、香港武侠紹介の鼻祖となった鄧羽公がいる。その鄧羽公の著作の中に『黄飛鴻正伝』があり、その影響を受けた作家たちの中に、林世榮の弟子でもあった朱愚斎がいた。朱愚斎は鄧羽公の『黄飛鴻正伝』の後を受けて、『黄飛鴻別伝』を著した。黄飛鴻の孫弟子に当たる人物の手になるだけに、その作品は真実をよく語っていると言われている。また、1938年に高小峰が広東語を交えた『黄飛鴻』を上梓し、広東語圏の人々に人気を博した。〈黄飛鴻〉電影誕生以前に、黄飛鴻の名は世に広まっていたのである。

それでは、話を電影に戻し、まずは一つの偶然から話をしよう。それは、黄飛鴻映画化にまつわるエピソードである。

1949年の秋、映画監督の胡鵬は友人の呉一嘯とともに、九龍から香港島に渡った。そこで彼がたまたま手にした「商工日報」に朱愚斎の黄飛鴻小説が載っており、そこには、呉一嘯がかつて黄飛鴻に師事したと書かれていた。驚いた胡鵬が側にいた呉一嘯に尋ねると、呉一嘯は武術など全く出来ないし、ましてや黄飛鴻に拝師したことなどない、朱愚斎の創作だ、と答えた。この一件にインスピレーションを得て、胡鵬は〈黄飛鴻〉電影を創ったというのである。

さて、呉一嘯が脚本家として協力し、シンガポール華僑温伯陵が資金面で協力することで、胡鵬は次々と〈黄飛鴻〉電影をヒットさせていき、羅志雄、王天林(のちに「黄飛鴻之鐵鶏鬥蜈蚣」を撮る王晶の父)、凌雲といった監督たちも〈黄飛鴻〉電影を手がけてゆく。1950年代には、全部で62本もの〈黄飛鴻〉電影が作られた。しかし、その内の53本が胡鵬監督作品であり、とくに1956年には、胡鵬一人で23本も〈黄飛鴻〉電影を撮っている。1960年代にはいると、胡鵬の後を受ける形で、王風が〈黄飛鴻〉電影をとり続けることになる。

そのヒットの背景には、いくつかの必然があった。

香港の人々の多くが、黄飛鴻と同じく広東出身であったことが挙げられる。郷土的な共感である。映画中によく登場する舞獅は黄飛鴻の得意であったが、これも広東の風習である。

次に、黄飛鴻は接骨医であり武術家であるので、医をもって人を救い、武をもって人を救うことが出来ることがある。つまり人物的な魅力と、幅広い物語展開の可能性とを内包していたとも言える。その反映の一つが、胡鵬によって映画が創られたとき、黄飛鴻物語はすでに新聞紙上で人気を博しており、多いときには七紙にも掲載されてたことである。映画のヒットはこの新聞紙上での小説との相互作用によるところも大きいと考えられる。さらにいえば、当時は黄飛鴻の弟子や孫弟子など、黄飛鴻を直接知る人々も多く、それらの人々が物語の源や観客となったことも考えられる。

銀幕の中の黄飛鴻

 1949年、胡鵬監督・朱愚斎脚本によって創られた記念すべき最初の〈黄飛鴻〉電影「黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭」において、黄飛鴻に扮したのは、粤劇出身で南派拳法の高手關德興である。それ以降、1981年の「勇者無懼」まで、テレビシリーズまで含めれば關德興は劇場作品77本、テレビシリーズ13本で黄飛鴻を演じ続けることになる。さらに、映画を離れても「黄師父」と呼ばれていた關德興であるが、後年、漢方薬局を開業し、気功治療を行うなど、私生活でもまさに黄飛鴻さながらの活躍を見せた。

關德興版〈黄飛鴻〉には、香港功夫電影史上に名を残す俳優たちや後の監督たちが名を連ねていた。梁寛役には、300本以上の映画に出演したベテラン曹達華、林世榮役には、その弟子でもある劉湛、その他、李小龍主演の「龍争虎鬥(燃えよドラゴン)」で敵役のハンを演じた石堅、成龍主演の「酔拳」で師匠の蘇化子を演じた袁小田などが出演していた。のちに「武状元黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ天地黎明)」で印象的な〈鉄布衫〉嚴振東を演じた任世官の姉である任燕もしばしば出演していた。また劉湛の息子で、後の名監督劉家良も、「黄飛鴻花地搶炮」「黄飛鴻怒呑十二獅」など多数に出演している。

後の映画界を支える才能を育んだという意味でも、關德興版〈黄飛鴻〉は、香港電影史上に偉大な足跡を刻んでいるのである。

更に重要なことは、關德興版〈黄飛鴻〉、すなわち胡鵬・王風版〈黄飛鴻〉は〈黄飛鴻〉電影のパターンを決定づけたという事実である。

黄飛鴻は、義侠的英雄、洪家拳宗師であり、伝統的武徳と民族的美徳、家父長的家族観念を体現する存在として描かれる。

黄飛鴻の本拠地として「寶芝林」があり、「尚武精神」と書かれた扁額、「我武維揚」「虎躍虎騰」と書かれた小扁が飾られている。

〈いたずら者〉の梁寛、〈出っ歯〉の爆牙蘇(「爆牙」が出っ歯という意味である)、〈馬鹿正直〉の猪肉榮(林世榮)などの弟子のキャラクター。

民間自警団の練武が登場する。

民族精神の象徴ともいうべき「将軍令」がテーマ曲として使われる。

はじめ悪の横行を忍んで耐え、最後に悪を討ち滅ぼすという勧善懲悪のストーリー展開。

ここで注目しておかなければいけないのは、黄飛鴻が理想の家父長として描かれているという点である。一方彼の弟子たちは人間的な弱点を特徴的に有している。「寶芝林」という家族・師弟関係の内部におけるもめ事は、必ず家長たる黄飛鴻が宥め教訓を加えることで解決される。外からふりかかるもめ事に対しても、まず黄飛鴻が解決に乗り出す。その際、まず礼をもって相手に接し、彼の〈武〉は、相手の非道がこれ以上は忍ぶことが出来ないと言う段階にいたって初めて用いられる。しかも、勝利の後には相手を赦し、その医術でもって癒し、善に導き、自ら悔い改める余地を残すのである。それは非常に儒家的な倫理道徳観である。つまり、ここの黄飛鴻は「仁義礼智信厳勇」の体現者なのである。

その後に作られた〈黄飛鴻〉電影では、自身も關德興版〈黄飛鴻〉に出演していた劉家良の監督した「陸阿采與黄飛鴻」「武館」が、この特徴をよく受け継いでいる。黄飛鴻-林世榮-劉湛-劉家良と受け継いだ真正洪家拳に基づくアクション指導が特色であり、「その映画には伝統的な武徳精神と家族観念を有している」と評されている。

1970年代末、すでに定着していた黄飛鴻=伝統的武徳の象徴という図式を覆した、革命的作品が登場する。袁和平監督・成龍主演の諧趣功夫片(コメディー・クンフー)第二弾「酔拳(ドランク・モンキー酔拳)」(1978)である。


南派拳法の代表格である洪家拳宗家の黄飛鴻が、典型的な北派拳法の酔八仙拳を得意としたはずはなく、その二つを組み合わせたことが「酔拳(ドランク・モンキー酔拳)」の、つまりは袁和平のオリジナリティと、我が国では言われていた。しかし、実は、關德興版〈黄飛鴻〉の一篇「黄飛鴻醉打八金剛」(王風1968)において、黄飛鴻は酔八仙拳を披露していたのである。しかも、猿拳を使う袁小田(「酔拳」で蘇化子を演じている)と戦っているのである!

「酔拳」が画期的であったのは、酔八仙拳の使用などではなく、老成した英雄的武術宗師という黄飛鴻の形象を一変させたことである。まず、まだ武術家として大成していない青少年期を描いたこと、そして、青少年期の黄飛鴻を「どら息子」として描いたことである(このあたりの設定は、成龍の親友である洪金寶監督・元彪主演の「敗家仔(ユン・ピョウINどら息子カンフー)」(1981)で、実在の詠春門高手梁賛を「どら息子」として描いているのと似通っていて面白い)。その設定によって、蘇化子による特訓場面を延々と見せるという演出も活きてくるといってよい。そして、成龍のコミカルな演技と相まって、「酔拳」は香港のみならず日本でも大ヒットを記録し、成龍を一気に大スターに押し上げた。

じつは、この「酔拳」登場の前年、黄飛鴻のイメージの一変を狙った作品群が作られている。それが、1977年に始まった13本のテレビシリーズである。

蔡継光、黄百鳴、黎偉民、高志森、黎永強、呉昊らのスタッフによって作られたこのシリーズでは、封建社会を軽視し、伝統に挑戦するという、今までとは180度転換した〈黄飛鴻〉のイメージが提示された。清末民初の動乱期という社会背景を絡めて、彼の弟子たちがいかにして帝国主義の侵略に抵抗し、甚だしくは五・四運動に参加し、革命に身を投じていったのかを描き出した。ちょうど、当時の香港では植民地支配に反対する学生運動が盛んな頃であり、そうした社会背景を反映していたと言えるだろう。一説には、そうした政治性は、自身が抗日運動に参加していた關德興の長年の意見でもあったという。

關德興、すなわち胡鵬・王風版が旧〈黄飛鴻〉の代表であるならば、新〈黄飛鴻〉の代表は、黄霑のアレンジによる「男兒當自強」も雄壮に登場した李連杰(および趙文卓)、つまり徐克監督作品〈ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ〉シリーズの〈黄飛鴻〉と言うことになるだろう。

 徐克は、まず復讐劇を一切排除し、単純な勧善懲悪の物語を拒絶した。かつての〈黄飛鴻〉電影が善と悪の衝突の物語であったとするならば、徐克の〈黄飛鴻〉電影は、中国と西洋との政治的軋轢と衝突を社会背景とする、保守伝統と近代西洋化との対立の物語であると言って良い。そして、黄飛鴻は医師としてあり武術家として名をなした存在という形象は維持しつつも、そうした社会状況の中で西洋近代文明や文化に接してとまどう青年という側面を与えられている。

例えば、「武状元黄飛鴻(天地黎明)」では、最大の対立勢力は中国人を奴隷として海外へ売りさばいていたアメリカ人商人たちである。また、冒頭に劉永福から「不平等条約」の扇子を託されることを見ても、中国と西洋の対立が大きな主題となっていることは間違いないだろう。そして欧米列強がもたらした鉄砲や、十三姨がもたらすカメラや洋服、西洋思想を前にして、黄飛鴻は「中国は変わって行くべきなのか」という悩みを抱えるのである。

また、単純な勧善懲悪の否定という側面の象徴として、対立構造の複雑化が挙げられる。上記の西洋と中国の対立に加え、西洋との対立という局面においては協力関係にあるはずの官憲とも、自衛団の教官としての黄飛鴻は対立してゆくことになる。また、その原因として黄飛鴻=自警団と沙河幇との江湖の衝突がある。しかも、この中で単純に悪として割り切れるのは沙河幇の連中だけである。沙河幇に助勢し、黄飛鴻と対決する〈鉄布衫〉の嚴振東との対立は、明らかに善と悪との二項対立では語ることが出来ない。嚴振東は伝統社会の代表者であり、名利を求める流浪者である。彼と黄飛鴻との差は実にわずかなものでしかない。劇中では描かれていないが、史実では黄飛鴻の父・麒英は、若い頃は貧しく、ちょうど嚴振東のように武芸を見せ物にして口に糊していた。また、嚴振東は決して黄飛鴻の〈敵〉ではない。彼が黄飛鴻によってではなく、西洋人の銃弾によって倒される事が、それを象徴的に物語っている。いわば、嚴振東は〈頑迷な中国〉という伝統社会の一側面の象徴であり、そういう意味において、かれは「負の黄飛鴻」である。

ここまでを纏めれば、徐克は黄飛鴻を中心において、西洋・官憲・民間との対立構造を作り上げ、その中で近代化を否定する〈頑迷な中国〉を批判していると言える。第二弾「男兒當自強(天地大乱)」においても、中国近代化の象徴ともいうべき孫文と黄飛鴻の交流を描いたことによって西洋と黄飛鴻との対立が無くなるという変化はあるが、西洋・官憲・民間の三者が互いに対立する構造は変わらない。民間の代表が、盲目的且つ狂信的に西洋文明の排除を行う白蓮教徒と、熊欣欣演ずる教祖九宮真人(クン大師)であり、官憲の代表が、中国の尊厳を守ろうとしつつも孫文に象徴される近代化を拒絶する、シリーズ最強の敵役・甄子丹演ずる納蘭元述提督である。現実問題としては孫文を悪として描くことはできないのだが、朝廷・官憲側から見れば、孫文は「革命」をもたらす秩序の破壊者であるから、納蘭元述が孫文と黄飛鴻の前に「敵」として立ちふさがったとしても、彼を「悪」とは言えまい。やはり、ここでも黄飛鴻と対立するのは〈頑迷な中国〉であって、決して単純な「悪」でない。よって、黄飛鴻も又単純な正義ではあり得ない。

ここで述べた徐克版〈黄飛鴻〉の形象は、かつての家父長的形象を払拭したものであり、清末民初という中国の動乱期を社会的背景として作品中に反映させている点において、一見1977年のテレビシリーズのそれに近いように思える。しかし、そこには歴然とした差違が存在している。1977年のテレビシリーズでは、伝統的な儒教倫理の体現者という衣は脱ぎ捨てても、黄飛鴻は絶対的な善であり、そこに自らの路程に対する悩みは存在していない。進むべき路は決まっているのである。一方の徐克版〈黄飛鴻〉では、黄飛鴻は絶対者ではない。進むべき方向についての不安も、悩みも、そして意地も存在している。端的に言って、「黄飛鴻は何処へ行くのか」に「中国は何処へ行くのか」を投影した物語、それが徐克版〈黄飛鴻〉である。徐克版は、李連杰3部作のの後、趙文卓主演で続けられ、TVシリーズではついに、辛亥革命以降までが描かれることになる。

徐克版〈黄飛鴻〉において、黄飛鴻の形象以外で注目すべきは、十三姨の存在である。

十三姨と黄飛鴻の恋愛の行方は、シリーズ全体のもう一つの主題となっている。十三姨は血の繋がりのない干姨媽とはいっても叔母であるから、彼女との恋愛は旧社会においては禁忌であるということを抜きにしても、黄飛鴻の恋愛が主題となったことはそれまでほとんどなかったのである。また、帰国子女であり、洋服を纏い、外国語を話し、カメラを愛用し、中国食よりも西洋料理に馴染んでいるいる十三姨は、黄飛鴻にとってもっとも身近な西洋である。その意味において、十三姨と黄飛鴻との間に恋愛感情が成立している以上、黄飛鴻は西洋と近代化を拒絶することは出来ないのだと言っていい。西洋を否定することは、十三姨を否定することになるからである。そして、黄飛鴻は、西洋文明の家庭教師たる十三姨を通して西洋文明を学び、伝統との間でバランスをとり、悩みながら近代化に臨んでゆくのである。

【参考文献】

  1. 佐伯有一『中国の歴史8 近代中国』(講談社 1975年)
  2. 知野二郎『香港功夫映画激闘史』(洋泉社 1990年)
  3. 浦川とめ『香港アクション風雲録』(キネマ旬報社 1999年)
  4. 『香港ムービーツアーガイド完全版』(BNN 1997年)
  5. 松田隆智『中国武術 少林拳と太極拳』(新人物往来社 1972年)
  6. 笠尾恭二『新版 少林拳決戦譜』(福昌堂 1999年)
  7. 陳墨『刀光侠影蒙太奇-中国武侠電影論』(中国電影出版社 1995年)
  8. 呉昊『香港電影民俗学』(次文化堂 1993年)
  9. TRASH&香港電影探偵団『超★級★無★敵 香港電影王』(未来出版 1997年)
  10. 羅・呉昊・卓伯棠『香港電影類型論』(牛津大学出版社 1997年)
  11. 葉洪生『論剣―武侠小説談芸録』(学林出版社 1997年)
  12. 「羊城晩報」電子版1997年12月20日【参考資料】
  13. 袁和平1978「醉拳(ドランク・モンキー酔拳)」
  14. 徐克1991「黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ天地黎明)」
  15. 徐克1992「黄飛鴻之二男兒當自強(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナII天地大乱)」
  16. 徐克1993「黄飛鴻之三獅王爭霸(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナIII天地争霸)」

最後に、我が家にある《黄飛鴻》ものの一部をご紹介しよう。

TVシリーズ

「宝芝林」(1984)

主役は劉徳華演じる豬肉榮。

梁家仁「黄飛鴻系列之鉄胆梁寛」(1994)

主人公・梁寛は李克勤

釈小龍「少年黄飛鴻」(2003)

黄宗沢(ボスコ・ウォン)「我師傅係黄飛鴻」(2005)


姜大衛(デビッド・チャン)が黄麒英を演じている。

劉家輝「黄飛鴻与十三姨」(2005)

張晨光「黄飛鴻五大弟子」(2006)

徐克版「黄飛鴻」で梁寬、鬼脚七、豬肉榮を演じていた莫少聰(マックス・モク)、熊欣欣、鄭則仕(ケント・チェン)が、同じ役で出演。

張衛健(ディッキー・チョン)「仁者黄飛鴻」(2008)

映画

関徳興「黄飛鴻少林拳(スカイホーク鷹拳)」(1973)

銭嘉楽「黄飛鴻系列之一代宗師」(1992)

王群「黄飛鴻之男児当報国(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地発狂)」(1993)

あべのハルカス、125年目の栄光

今月7日、阿倍野に「あべのハルカス」がグランドオープンしました。高さ約300メートル。日本一の高さの高層ビルになりました。展望台は、大阪湾まで見渡せる眺望と、パインアメアイスで、なかなかの人気だとか。夕暮れ時がお薦めという話もありますが、大昔は、阿倍野筋のすぐ西まで海が迫っていました。そして夕日の名所として知られていました。ハルカスのすぐ北、天王寺区になりますが、ここには四天王寺があり、その一帯には「夕陽丘」という地名が残っています。まるで新興住宅地のような地名ですが、由緒ある地名で、嘉禎2年(1236年)、浄土宗に帰依した藤原家隆が「日想観」を修行するために、この地に「夕陽庵」をむすんだことが由来とされています。

さて、この「あべのハルカス」ができるまで、日本で一番高かった高層ビルは「横浜ランドマークタワー」で295.8mです。今回、「あべのハルカス」が日本一になることで、実に125年ぶりに、その栄冠が大阪に帰って来たのです。

かつて、一瞬だけですが、大阪には日本一の高層建築がひしめいていました。何とっても有名なのは、東洋一と言われた初代「通天閣」。1912年に完成し、高さは約75mでした。「大大阪」と呼ばれた時代の話です。

今回のお話は、それよりもまだ十年以上遡ります。

時に、1888年(明治21年)、西成郡今宮村に「眺望閣」というパノラマタワーが建てられました。高さ31m、5階建ての建築物ですが、当時は日本一の高さのビルでした。

翌年、西成郡北野村に「凌雲閣」が建てられました。高さ39m、9階建てでした。

この界隈は「茶屋町」と言われるように、当時も茶店が軒を連ねていました。そこに温泉や、ボートがこげる池などを備えたレジャー施設「有楽園」が作られました。その中心となる施設として建てられたのが、「凌雲閣」でした。1・2階が五角形、3から8階が八角形、9階には展望台と時計台がしつらえれていました。

「眺望閣」と「凌雲閣」はそれぞれ、「ミナミの五階」「キタの九階」として親しまれました。

しかし、日本一の期間は短く、翌年には東京浅草に奇しくも同名の「凌雲閣」高さ52mに、その座を奪われてしまいます。こちらの「凌雲閣」は「浅草十二階」の名称で親しまれました。写真は「大江戸博物館」に展示されている模型です。

この「浅草十二階」に日本一の座を奪われてから実に、125年。「あべのハルカス」の開業によって、栄冠が大阪に帰ってきたわけです。

ところで、大阪であと高い建物というと、「りんくうゲートタワービル」(256.1m)、「大阪府咲洲庁舎」(256.0m)。200mクラスの高層ビルもありますが、港区や中央区で、北区梅田周辺には、あまり高い建物がありません。

これは、大阪国際空港(伊丹空港)の存在が影響しています。空港周辺には、航空機の離発着のための航路を確保するためにさまざまな制限が設けられますが、建築物の高さ制限もその一つ。高さの制限区域は空港から円錐状に、ある程度のところで水平になっておわります。

数年前に、この水平制限区域(外側水平表面)が見直された結果、阿倍野周辺の制限が解除になりました。地図で、円錐表面と外側水平表面が外側に作り出す鋭角な角のところに「あべのハルカス」は位置しています。

ちなみに、「眺望閣」と「凌雲閣」の跡がどうなっているかというと、「凌雲閣」の跡には梅田東小学校が建てられ、今はその小学校も廃校となり、梅田東学習ルームになっています。

正門の脇にひっそりと記念碑とプレートが設けられています。

一方の「眺望閣」は、大阪日本橋のNTTが有る辺りにあったらしいのですが、そんな記念碑もありません。しかし、「ミナミの五階」は生きています。

「眺望閣」ができてから、あの界隈は「五階」と呼ばれるようになりました。そしてそこに集まっていた露店などが、総称して「五階百貨店」を名乗るようになります。

いまも、その界隈は「五階百貨店」と称されていて、電気工事士などプロ御用達の電気屋・道具屋があつまるところとして知られています。

梅屋庄吉の生涯がドラマ化~孫文と辛亥革命~

この2月26日、テレビ東京系で「たった一度の約束~時代に封印された日本人」というスペシャルドラマが放送される。原作は、小坂文乃氏の「革命をプロデュースした日本人 評伝 梅屋庄吉」。主人公は梅屋庄吉、孫文に資金援助を続け、辛亥革命を陰から支えた実業家だ。孫文に共鳴し、革命に身を投じた日本人も少なくない。中国革命における日本人の最初の犠牲として知られる山田良政もその一人。そうした尊い犠牲の上になった革命だが、梅屋庄吉が投じた莫大な資金がなかったら、果たしてどうなっっていたことか。それだけに、中国では孫文とともに語られることが多い梅屋庄吉だが、近年の日本ではどちらかというと忘れられた存在だったのではないだろうか。これを機に、広く深く人々の記憶に残って欲しい人物である。

さて、このドラマを前に、我が家の孫文・辛亥革命関係のDVD・ble-rayを引っ張り出してみた。

まずは、「競雄女侠 秋瑾」。

女性解放運動家でもあった秋瑾は、1907年に武装蜂起に失敗し逮捕され、31歳の若さで処刑された。この作品は、男優人を見ても分かるように動作片(アクション映画)。
彼女は死後、辛亥革命の精神的なシンボルとなっていく。
そういうこともあり、彼女の姿は、成龍(ジャッキー・チェン)の「辛亥革命(1911)」の冒頭でも描かれている。

この映画で、成龍は黄興を演じている。孫文を演じたのは台湾の名優・趙文瑄(ウィンストン・チャオ)。趙文瑄は中華圏では《孫文俳優》として知られている。彼が同じく孫文を演じたのが、「宋家皇朝(宋家の三姉妹)」。

それに。孫文のペナン逃亡時代を描いた「夜・明(孫文―100年先を見た男―)」。

このほか、テレビドラマ「孫中山」でも孫文を演じている。

この趙文瑄と並ぶ《孫文俳優》が大陸の馬少驊。大作ドラマ「走向共和」に主演している。全60話。DVD18枚にもなる。

この後半ぐらいからに相当するの大作「建党偉業」。

しかし、これは主人公は毛沢東。
馬少驊は「平民大総統」「風雨十二年」などでも孫文を演じており、「もっとも孫文に似た俳優」と言われている。

辛亥革命・孫文とその周辺を描いた映画というと、アクション巨編もある。「十月囲城(孫文の義士団)」だ。

この映画、ドラマ部門の中心が王学圻なら、アクション部門の主役は甄子丹(ドニー・イェン)だろう。その甄子丹の出世作にも実は孫文が登場している。「黄飛鴻之二:男兒當自強(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地大乱)」だ。

写真はブルーレイ・ボックス。この映画で孫文を演じたのは大陸の俳優・張鉄林。《乾隆帝俳優》として知られている。

冒頭に紹介したスペシャル・ドラマで孫文を演じているのは奥田達士さん。HPの写真を見る限り、なかなか雰囲気が出ている。
しかし、個人的には晩年限定だが、日本人なら吉村作治先生が最も孫文に似ていると思う。

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