月別アーカイブ: 11月 2013

【ニュース】周杰倫(ジェイ・チョウ)スマホが登場!

日本では、「SO-04E Xperia A feat.HATSUNE MIKU」が話題になりましたが、最近、中国大陸では芸能人が携帯・スマホを作らせるというのが流行っているらしい(※)です。そしてついに先日は周杰倫スマホが発表されました。周杰倫はネットゲームやソーシャルネットサービスを提供する「UCAN」という会社に出資しているらしいのですが、その会社から「Ucante」というブランドでスマホを発売するということのようです。第一弾となる「Ucante U1」は、 ARM「Cortex-A7」クアッドコア、OSはAndroid 4.2.1、ディスプレイは6.5インチ1080P Full HDで、内蔵メモリは2GBのRAMと32GBのROM、カメラが1300万画素。ということですから、今となってはエントリーモデルと言えるでしょう。他に、ゲームとテレビアプリが搭載され、周杰倫の写真が入ってくるようです。お値段は2999元、約4万5000円といったところですね。

※ 韓国「Super Junior」の韓庚の「庚phone」は2780元。アマゾンでは黄色の限定版5000台が販売されたとか。大陸ロックのパイオニア・崔健は4月に「藍色骨頭」を発売、写真、mp3、MVなどが入っている要です。価格は3988元。名前は彼の曲「藍色骨頭」からとっていますね。

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【歳時記と落語】ヌンチャクの真実。ブルース・リーと稽古事

今週は節気としては、特にないんで、まあ趣味に走ってお話をしたいと思います。
11月27日は、ブルース・リーこと李小龍の誕生日です。生きていたら73才ということになります。亡くなったのは1973年7月20日、今年は没後40年ということで、色々とイベントもありましたが、香港文化博物館では、今年から五年間特別展を開催しております。
世界中に「カンフー映画」ブームを巻き起こした李小龍ですが、いわゆる「カンフー映画」の主演、ブームの原動力となったのは、香港帰国後のたった四作品しかありません。『ドラゴン危機一発』(唐山大兄)、『ドラゴン怒りの鉄拳』(精武門)、『ドラゴンへの道』(猛龍過江)、『燃えよドラゴン』(龍争虎闘)です。彼自身のキャリアからすれば、仕事のごく一部ということになります。
それだけに、一作一作のインパクトがどれだけ大きかったかというのが分かろうかと思います。

映画の中で、李小龍を印象付けているのが、「怪鳥音」と呼ばれる独特の叫び声と、「ヌンチャク」アクションでしょう。
画期的アクション映画が彼のキャリアのごく一部ということと、その大きな要素である、この「ヌンチャク」アクションは不可分の関係にあります。
それは彼の武術家としてのキャリアです。
李小龍が創始した「截拳道」は今日でも継承されていますし、総合格闘技の源流とも言われています。しかし香港帰国につながるアメリカ映画、TV界での彼のキャリアは、「截拳道」を創始した武術家としての認知から始まっているのです。むしろ、アメリカでは武術家、哲学家としての方が評価が高いともいえます。

そして、この武術家としてのキャリアが、「ヌンチャク」アクションに大きく影響してくるのです。
李小龍は、アクション・スターとしてを注目されるようになるのは、1966年にTVドラマ「グリーン・ホーネット」にカトー(ケイトー)役で出演してからです(リメイク版では周杰倫が演じました。それが気に入らなかったのが甄子丹。彼は、自身の映画「精武風雲」の中でカトーそっくりの衣装で登場します)。このドラマの中で、彼はすでに「ヌンチャク」アクションを披露しています。つまり、武術家時代に、「ヌンチャク」を身に着けていた、ということになります。
李小龍に「ヌンチャク」を教えた人物、それは日系の空手家・落合秀彦氏でした。ジャーナリストの落合信彦氏の実兄です。李小龍と落合氏が出会ったのは、1960年代の半ば、ロサンジェルスのYMCAだったと言われています。落合氏はアメリカの格闘家の殿堂に名が列せられているほどで、アメリカの空手界に大きな足跡を残した偉大な格闘家です。
ほぼ同じ頃、ロスにはもう一人偉大な日本人空手家がいました。1965年に渡米した糸東流の出村文男氏です。彼もブルース・リーとは親交があり、古流などを教えたようです。彼がヌンチャクを教えたという説もありますが、アメリカでは落合秀彦氏という説が一般的です。
いずれにしても、沖縄唐手の武器である「ヌンチャク」の技法を、李小龍は、格闘家時代に習得していましたわけですが、彼の「ヌンチャク」アクションは、沖縄唐手のそれとは大きく異なっています。
それは、「ヌンチャク」と同様の武器は、フィリピン武術「カリ・エスクリマ」でも使われており、李小龍はこのフィリピン武術の技法を取り入れて、独自の「ヌンチャク」アクションを作り上げたのです。
そしてここにも、彼の武術家としてのキャリアが大きくかかわっています。彼の高弟にして盟友、李直系の「截拳道」を今に伝える武術家・ダン・イノサントの存在です。李小龍の死後に大幅な追加撮影の末に完成を見た「死亡遊戯」にもカリの達人として出演しています。フィリピン武術の達人であるイノサントから、その技法を学んだことは疑いようもありません。

さて、日本が誇る和製ドラゴンこと倉田保昭氏が、李小龍にヌンチャクを教えたという説がありますがこれは、今述べたように誤りで、倉田氏が李小龍と初めてあったのは、『ドラゴン怒りの鉄拳』(精武門)撮影中の1971年だということでも、それは明らかです。倉田氏自身が語っているところでも、自身のヌンチャクを李にプレゼントし、それを李が映画の中で使ったというもので、「ヌンチャク」を教えたとは言ってはいません。武術談義が弾み、話が「ヌンチャク」に及んだときに、李が今手元にないというので、偶々持ってきていた倉田氏が、じゃあ俺のをあげるよ、と言った、というようなことのようです。

不世出の武術家にしてアクションスター、李小龍は少年時代に葉問より詠春拳を学び、その後様々な武術・格闘技を学び、自らの肉体を通し、「以無法為有法 以無限為有限」という哲学の元に統合して「截拳道」を作り上げました。その過程の象徴が、彼を特徴付ける「ヌンチャク」アクションであると言ってもいいでしょう。
天才といっていい李小龍でも、はじめはやはり学ばなければ何もできなかったわけで、習い事、稽古というのは、大切なものです。

現在も習い事は老若男女を問わず盛んですが、実は日本の江戸時代というのは大人の習い事が盛んだった時代でもあります。余裕の有る商人くらいやと、ちょっと風流に短歌や俳句、連歌なんぞを楽しみました。文楽の語りである浄瑠璃をやるてなことも流行りました。「寝床」「軒付け」「猫の忠信」なんかには浄瑠璃が出てきます。庶民でも手軽に習えるというたら、小唄、踊り、常磐津、三味線で、関係しますんでまとめて教えている稽古屋なんてもんがあちこちにあったようです。

さて、ここにおりました我々同様という男、町の甚兵衛さんのところにやってきます。女にもてるにはという話になります。もてる条件として昔から言われるのが、「一見え、二男、三金」。今で言うと、センスがよくてイケメンでヒルズ族でというわけですが、残念ながらどれも当てはまりません。そこで甚兵衛さんが進めるのが「四芸」、なんぞ芸でもできたらもてるかもわからんというわけです。
早速男は、甚兵衛さんの紹介で横町の稽古屋へ。ちょうど女の子が稽古しているところ、外からのぞいて散々茶々をいれます。女の子に「腰を折んなはれ(腰をおとしなさい)」というのを聞いて、表の格子を折ってしまいまして、「甚兵衛はんの紹介で今日からあんたの手下や」と上がりこみます。
まずは、みなと一緒に女の子の稽古を見なはれ、ということで男を座らせまして、お師匠はんは稽古の続きをいたしますが、女の子がえらい笑い出す。見ると、男が鉄瓶の上に草履を乗せている。来る途中で立小便をして濡れたのを乾かしておるんですな。
気をとりなおしまして、次の子の稽古を。すると袂から芋が三つ出てまいります。来る途中でこうたもんですな。お師匠はんが預かって、踊りの続きを、すると突然女の子が泣き出します。男が、芋を二つも食べてしもうたんです。
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それで、まず男に稽古をということになります。
「あんた、何のお稽古がよろしいの?」
「そうでんなあ、なんせ色事が派手にできるようなお稽古がよろしいな」
「色事ができるようなお稽古て、うちではそんな稽古せえしまへん」
「何ででんねん?」
「昔から言いまっしゃろ。『色は指南のほか』でおます」

今ではこのサゲも分かりにくうなりました。色事というのは、何かと人の分別を狂わせて、常識どおりにはいかんようになってしまう。昔も今もそれはかわりまへんが、それを昔は「色は思案のほか」と言うたんですな。

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【歳時記と落語】寒くなってきますと鍋が恋しくなります。「鮭」の毒にはご用心。

そろそろ北の方から初雪の便りが聞かれるようになりました。22日は「小雪(しょうせつ)」です。ちらほらと雪が降るようになり、寒さが日ごとに増していく、そんなような意味やそうです。公孫樹や柑橘類も色づいています。
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同じ「小雪」でも「こゆき」と読みますと、これは積もるか積もらんかというような雪をいう気象用語になります。
 翌23日は「勤労感謝の日」。これは元々は宮中行事の「新嘗祭」でした。「新嘗祭」は旧暦11月の2回目の卯の日に行われておったんですが、1873年に太陽暦が導入されたとき、その日が翌年1月になってしまうということで、新暦の11月にすることにしたんやそうです。その年の2回目の卯の日が、たまたま11月23日やったということで、以降日を固定したんですが、この日付自体にはあんまり意味はないんですな。
 寒うなってきますと、鍋が恋しくなってきますが、大阪あたりで鍋といいますと、なんと言うても河豚ですな。しかし、海に住んでおる河豚やのになんで「河豚」と書くかというと、中国の河豚は川を遡上するんですな。中には長江河口から1200キロも上流の漢口あたりまで遡上する種類もあるやそうです。古くは「鮭」とも書いた。「鮭」はサケやないかと思いますが、サケは元来は魚偏に生と書いた。それがいつの間にか間違うて「鮭」の字が使われるようになったと、すでに『倭名類聚抄』に見えています。青木正児の「酒の肴・抱樽酒話」に老漢学者の話として、医者に「知人より鮭を貰ったが、食べても大丈夫か」と手紙で尋ね、大丈夫との返事だったので食べたら、あたっってしまった。老漢学者は「鮭」を「河豚」の意味で使っていた、という話があります。
 ここにもうかがえるように、昔から河豚というのはその毒が恐れられました。「河豚は食いたし命は惜しし」などという古い言葉もありますが、食通として知られた蘇東坡は、河豚を「一死に値する」とまで評していますし、北大路魯山人も「河豚食わぬ非常識」という随筆を残しています。
 しかし、なんだかんだというて、うまいもんの誘惑には勝てんのが人間の性というやつでしょうな。昔は「測候所、測候所」とまじないを言うて食べたらしい。「測候所」今の気象台ですな。天気予報があたらんというのでまじないにしたらしい。
 ある男が、温泉旅行のお供の土産を持って、日ごろ世話になっている旦さんのところに挨拶行きますと、鍋の用意がしてある。お酒の用意もしてある。ご馳走になれると聞いて喜びますが、これが河豚鍋。
「さよかフグですか、なるほど……。わたしちょっと家に用事思い出したまんで、一旦失礼さしていただいて……」
「これ、どこ行くねん。遠慮せんとやったらどや」
「河豚と伺いますと、ちょっとこのご辞退をさしていただきます。まだちょっと時期が早いよぉに思います」
「そんなことあるかいな。フグはこれからが時期やがな」
「そやおまへんのんで。わたしのせがれも、今度学校卒業いたしまして、旦さんのお計らいで就職が決まっとります。これが三、四年も経ちますというと、生活の方も安定してくるやろと思われますんで、割れ鍋にも閉じブタ、てなこと言いますんで、適当な嫁を持たして、でまあ孫の顔の二、三人も見て、ああ、生きてて良かったなあ、とこない思てから頂戴さしていただきます」
「そんな時分まで煮いてられへんがな」
 臆病な男もあったもんですが、実はこの旦さんも河豚は初めてで気が乗らん。そこで誰ぞ来たら、まず食べさせてみて、大丈夫やということになったら食べようという算段です。
 それやったら、二人同時に食べまひょうという話になりますが、どっちも相手より先に食べるのはいやでっさかいに、話は進みまへん。
 すると、何や奥の方がちょっと騒がしなった。聞くとオコモさん、乞食ですな、これがお余り貰いにやって来たといいます。
「お余りてなもんお前……、あるやないか!ちょっと待たしとき。オコモが来てるっちゅうさかいに、これ食べさして、大丈夫やと見極めた上で我々が食べるというのはどや」
「なるほど。さすが旦さん、腹黒い」
 で、男がオコモの後をつけまして様子を伺います。横町のお堂に座り込んだのを見届けると、町内を一周、時をみはかろうて、戻ってまいりますと、河豚を食べて体が温まったせいか、気もよさそうに居眠りをしてる。
「居眠りなあ。そのまま息引き取ってはるてなことはないやろな」
「そら大丈夫だ。寝言言うとりましたんで」「
「寝言?」
「えぇ。『ん~ん、しびれるぅ~』嘘、嘘、冗談でんがな。気持ちのよさそうな顔して寝とりました」
 これは大丈夫やということで、今度は二人して争うようにして鍋を平らげ、最後は雑炊にして、もう満腹。
すると、さっきのオコモがまたやってきます。
「あのう、旦さん方」
「何じゃこいつ、厚かましいやっちゃ、庭から回って来てるがな。何や?」
「もうみなお召し上がりになりましたかいなぁ?」
「この通りスックリ食べてしもたがな」
「ああ、さよか。ほな、わたいも、安心してこれからゆっくり頂戴をいたします」
オコモの方が一枚上手やったというお話です。
河豚の調理は今は免許が要りますんで、お店で食べる分にはめったのことではあったたりはいたしません。死亡事故も毎年何件かありますが、これは殆ど素人調理が原因やそうです。

「天王寺詣り」で四天王寺参詣

先日、四天王寺さんへ行く機会があったので、いくつか写真を撮ってきました。
このブログでは、落語とくに上方落語を中心に扱っていますので、ここは「天王寺詣り」の噺を交えながら、ご紹介したいと思います。
「天王寺詣り」というと、六代目笑福亭松鶴が有名ですが、その原型は五代目笑福亭松鶴のものです。

死んだ飼い犬の引導鐘を撞いてやりたいという男に連れられて、ご隠居さんが案内役でやってきます。合邦が辻から一心寺、向かいが安井の天神さん(安井神社)、という道順ですので、西からやってきたことになります。そして正面に見えてきますのが、四天王寺の大鳥居です。

石の鳥居

「マア立派な鳥居でやすな」
「これを日本三鳥居と言うね」
「ヘエ日本三鳥居てなんでやす」
「大和吉野にあるのが、金の鳥居、芸州安芸の宮島にあるのが楠の鳥居、天王寺石の鳥居とあわせて、これで日本三鳥居と言うね」

(五代目笑福亭松鶴『上方落語100選3』。以下同じ)

この石の鳥居には扁額が掲げられています。片側の縁がないので男はチリトリと言いますが。
ご隠居さんが、中に何と書いてあるかと尋ねますが、男は「四字ずつ書いて、四四の十六字」と答える始末。

「釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心」

ソレ、釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心じゃ」
「何にも分からん、ねこの糞じゃ」
「コレ、いらんことを言いな」
「どなたが書いたんでやす」
「弘法の支え書きと言う」
「鰌汁の中に、入ってあるのん」
「それは、ごんぼのささがきや、誠は、小野道風の自筆やともいう」

今度は視線が下に降りまして、鳥居の根元。カエルが三つ彫ってあると言います。今ではそのような形はまるで分かりません。ちなみに、右側の根元だけ突起が四つついています。その鳥居の根元に左右一対あるのが、通称「ボンボン石」とか「ポンポン石」とか言われるもの。元々は棒でも指したんやないかと思うんですが、穴というか窪みがあります。

「あの石の真ん中に四角な穴がある、石を持ってたたくとぼんぼんと唐金のような音がする、そこへ耳をあてると、わが身寄りの者が、来世で言うてることが、聞こえるのや」

ボンボン石(ポンポン石)

音が聞いてみると、景気のええ呼び込みの声がする。さては死んだ叔父さんが、あの世で手広う商売でもやってるのかと思うたら、実は隣の茶店の呼び込みです。
続いて、ご隠居が一気に境内を紹介します。

「こちらへおいで、これが西の御茶所、納骨堂に太子念仏堂、引声堂、短声堂、見真大師、お乳母さんというて、乳の出ぬ人はここへ詣る、布袋さんが祭ってある、これが天王寺の西門や」

残念ながら、ここで述べられているものの中で、現在もほぼその場所に再建されているのは、見真大師とお乳母さん、そして最後の西門だけです。

乳布袋尊

布袋さん

見真大師(親鸞聖人旧跡と像)

しかし、元禄期の「新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図」を見ると、鳥居と西門の間にいくつかの建物が見え、「たんせい堂」「いんせいたう」「太子いんたう」の文字が見えます。
四天王寺旧伽藍

そのほかの資料を参考にすると、通りの南に西から「大師堂(恐らく太子念仏堂)」、「茶屋」「引声堂」、北側に「短声堂」と「納骨堂」があったようです。「短声堂」の跡は、四天王寺中学・高等学校の正門の脇にあります。

右が今の納骨堂。左は阿弥陀堂

納骨堂は現在はもっと南に阿弥陀堂と並んで立っています。

そして、西門をくぐります。

西門

この西門には特徴が有ります。転法輪、噺の中では「輪宝」と呼ばれていますが、これが内の柱に一つずつ、計四つついています。

輪宝(転法輪)

「天王寺の寺内は天竺の形をとったもの、手洗水がない、水という字が崩して車にしてある、三度回すと、手を洗ろうたも、同然や」

噺の中ではそう説明されていますが、仏の法を説くことをいうので心が清らかになるというのが本来の意です。
そもそも、今では手水は境内の彼方此方にあります。
西門を入りますと、松が植わっています。これが義経鎧掛けの松です。

義経鎧かけ松

「コレが、義経の鎧掛松や、コレが経堂、経文ばかりで詰まってあるのや、コレが金堂、この格子の中をのぞいて見なはれ」
「何やチョン髷に結うた親父さんが上下着て座ってますな」
「アレが淡太郎の木像や」
「コレだすな、万さんとこの子取りよったのは」
「ナニが」
「ガタロの極道だすか」
「淡路屋太郎兵衛という、紙屑問屋の旦那や、天王寺が大火で焼けた時、五重の塔を建立しなはった、その木像が残してあるのや」

経堂は現在はありません。西門からまっすぐに西重門へ向かう道の北にあったらしい。

境内の礎石

経堂は輪蔵ともいいます。礎石だけは残ってます。その関係かしりまへんが、今は傍に納経所があります。
この次の金堂は、西重門をくぐった先にあります。噺ではすぐそばのように言うてますが、ちょっと離れてます。

金堂

今の金堂、というか伽藍は戦後に再建されたもので、江戸時代に再建された伽藍は台風で壊れたり戦災で焼けたりてしまいました。木像も今はありません。ただ、淡路屋太郎兵衛の墓は中央区の正法寺にあります。
で、男はここで、「その五重塔ちゅうのはどこにおまんねん」と尋ねます。当然、金堂のすぐ前にあるわけですが、男はそれを五重の塔とは思わなかったんです。

五重の塔

「なんでこれ五重の塔と言いますね」
「五ツ重なってあるから、五重の塔や」
「ひイふりみイよオ、四ツしかおまへん」
「上にもう一ツあるがな」
「あの蓋とも五重だすか」
「重箱みたいにいいないな」

確かに、重箱というのは二の重やとか三ぼ重やとか言いますが、蓋は数えませんはな。
勿論今の五重の塔は戦後に再建されたもんですが、一番上には仏舎利が納められております。そもそもお寺の塔というのはその為に建てられるもんでっさかいにね。拝観時間中はそこまで登ることができます。
噺の方では、この後に伽藍中の案内、そして南に抜けて、再び境内の散策が始まります。ここが駆け足にポンポンと喋っていくところですが、実際に歩くと結構な距離です。

「こちらへお出で、これが竜の井戸、天王寺の境内は池であった、竜が主、聖徳太子がこの井戸へ符じ込んでしもたので、竜の井という、これが回廊や、南門、仁王さんの立っているのはここや、西に見えるが神子さん、南のお茶所、虎の門、お太子さん、前にあるのは夫婦竹、太子引導鐘、猫の門、左甚五郎作で、大晦日の晩にはこの猫が泣くという、用明殿、指月庵、聖徳太子十六歳のお像、亀井水、経木流す所や、たらりやの橋、俗に巻物の橋、向うに見える小さいお堂が丑さんで、前にあるのが瓢たんの池、東に見えるが東門、内らにあるが釘無堂、こちらが本坊、足形の石鏡の池に、伶人の舞いの台や」

これ、何やその辺をまとめて紹介しているようですが、実際は境内を大体四分の三周ぐらいしてます。
まず、「竜の井戸」ですが、これは今も西重門入ったちょっと北のところにあります。せやから噺はちょっと後にもっどてるのやね。回廊は伽藍の周囲ですわな。

回廊(これは東側)

噺ではコレを南へ下がって、南門というてますが伽藍配置では「中門」、現在は「仁王門」というてるところから、伽藍の外へ出てます。今はこの「仁王門」からは出られへんようになってます。

中門(仁王門)。噺では南門と呼んでいる。

万灯院

「紙子さん」というのは「紙子堂」、ほんまは「万灯院」と言います。これは今も同じ所に建ってます。勿論建物は変わってますが。
南の御茶屋、夫婦竹、これは今はありません。御茶屋あたりには今は南休憩所があって、役割をひきついています。「太子引導鐘」は今もありますが、当時とは別の建物です。

南鐘堂(太子引導鐘)

「虎の門」は今も大体同じくらいの所にあります。

寅の門

寅の門のトラ

この虎の門は「お太子さん」つまり「太子堂」の門の一つです。続く「猫の門」もそうです。今は西向きに建っていますが、元々は北向きに建っていました。

猫の門

猫の門のネコ

「用明殿」「指月庵」は「太子堂」の北、今宝物殿があるあたり、あの辺にあった。お太子さんの像も今はそこにはありません。太子堂に収蔵されています。
これが、大体西門のちょうど反対側あたりです。ここから少し北へ歩きますと、「亀井水」。今「亀井堂」と「亀井不動尊」があるあたりです。

亀井堂

噺では、ここで「たらりやの橋」というのがでてくる。しかし、今はあの辺に橋はありません。昔は亀井堂から東の下の池まで水路があったんです。そこにいくつか橋が架かってたらしい。そのうちの一つが「たらりやの橋」。その橋の石が、宝物殿の南に置かれています。説明が書かれていますが、これ実は古墳時代の石棺の蓋やったんです。明治時代にそれが分かってから、橋は架け替えられたようです。

橋の石

「丑さん」というんは「石神堂・牛王尊」です。今は「亀井堂」のすぐ傍にありますが、昔はもっと西側にあったらしい。

牛王堂

その向こうには弁天堂のある「下の池」があります。ここでいう「ひょうたん池」は多分これのことでっしゃろな。

弁財天堂と下の池

その更に向こうにあるのは「東門」です。手前には「伊勢神宮遙拝石」があります。

東門と伊勢神宮遙拝石

「内らにあるのが釘無堂」というてますが、これは本坊の塀の内側にあったからなんです。「釘無堂」というのは、ちょうど弁天堂の北にあった本坊の宝庫のことなんです。
本坊は四天王寺の境内の北東の角一帯が全部そうです。今はその庭には入ることができます。

本坊への門

これで、南から北に上がってきて、東を向いて、西向きに折り返してきたことになります。
この後、五代目の噺では、すぐ足形の石」に行きますが、六代目の噺では、大鐘楼に回っています。
大鐘楼は、六時堂の北西にあったんです。ここには、当時、世界最大の釣鐘があったんです。1903年(明治36)の第五回内国勧業博覧会に併せて、聖徳太子1300年の御遠忌を記念して鋳造されたもんで、高さ7.8メートル、直径4.8メートルもあったそうです。今も四天王寺さんの南参道に「釣鐘まんじゅう」を製造発売するお店がありますが、この大釣鐘を記念して作られたもんです。釣鐘は太平洋戦争の時に供出されていまいましたが、大鐘楼は「英霊堂」となって残っています。

英霊殿(大鐘堂)

そこから南に下がりますと、上の池があります。今は「丸池」というてますが、この北西に「仏足石」があります。これが「足形の石」でしょうから、「鏡の池」というのは「丸池」のことでしょう。

丸池

仏足石

ここから東へとって返しますと、「伶人の舞いの台」、石舞台です。池の上にかかった橋のようになっています

石舞台

この石舞台の所で、男がご隠居さんにおかしなことを聞きます。
「天王寺の蓮池に亀が甲干す、はぜをたべる、引導鐘ごんと撞きや、ホホラノホイてなんだす」
「コレそんなけったいな尋ねかたをしないな、皆がお前の顔を見てるがな、それはここや」
「アア向こうに亀がたんといてます、向処へいきまひょうか」
「向こうへ行かいでも、手を叩くと、皆亀がこちらへ来るがな」

池の亀。親亀の上に子亀が載っている。

こういう流れですんで、いまも亀がようけいてる石舞台の池が「蓮の池」のこのでっしゃろな。今でも手を叩いたら寄ってくるかどうかはしりまへんが、昼間に甲羅を干している亀の姿はのんびりしててよろしいもんです。
噺ではこのあとで境内の賑やかな様子が入りまして、ご隠居が、

「サアこちらへおいで、これが引導鐘や」

というて、漸く北の引導鐘に辿り着きますが、実際には北の引導鐘、「北鐘堂」は亀の池のすぐ南にあります。ここは今でもずっと引導鐘を撞いております。

北鐘堂

ここで、男は死んだ飼い犬のクロの為に引導鐘を撞いてもらいます。
ここまできますと、ちょっと南にさがると、元の西門の前に出てきます。そうしたら、来たのと逆に帰ったらええんです。上手い具合に境内を一周回って帰れる道順になったあるんです。

残念ながら、度重なる災害や戦災を受けたせいで、四天王寺はその殆どが戦後に再建された建物ばっかりです。しかし、重要な建物は大体元の建物と同じような位置に再建しています。ですから、細かいところは合いませんが、今でも「天王寺詣りを観光ガイドに聞きながら境内を回ることは一応できるんです。

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【歳時記と落語】革命の志士山田良政と円朝・円生

11月12日は、中華圏で知らない人はいない孫文の誕生日です。
 辛亥革命の中心人物として、各国を巡って支援を訴えた孫文。中でも日本は彼自身が一時亡命したこともあり、結びつきが強い。梅屋庄吉が有名だが、その他にも多くの人が様々な面で孫文に協力していました。中でも、山田良政は、中国革命における日本人の最初の犠牲として知られています。
 山田は、陸羯南(くが かつなん)に勧められ中国語を学び、上海で働きますが日清戦争には職を辞して陸軍通訳官として従軍しました。その後、海軍少佐・滝川具和の知遇を得、滝川を頼って北京の日本大使館付の海軍省嘱託職員という身分で調査諜報活動にあたりました。
 翌年、戊戌の政変が失敗に終わると、政変の中心人物である梁啓超や王照の日本への亡命を手助けしました。その縁から、1899年に日本へ帰国した山田の元を孫文が訪れます。協力を約束した山田は、1900年に南京同文書院の教授兼幹事として南京へ渡ると、革命の準備に関わり、10月6日に恵州での武装蜂起が起こると、孫文から依頼されて陣営に赴きますが、戦況はすでに劣勢となっており撤退を余儀なくされました。そして10月22日、撤退中に命を落とします。戦死したとも捕らえられ処刑されたとも言われます。孫文も遺体を探させたと言いますが、遂に見つからなかったそうです。
 1913年、革命を成功させ中華民国を建国した孫文が来日、東京府下谷区谷中(現、東京都台東区谷中)の全生庵に山田の慰霊碑を建てました。
 この全生庵、山岡鉄舟が建立した寺ですが、実は落語とも関わりが深く、山田の慰霊碑の隣には怪談で有名な三遊亭圓朝の墓が、そして初代から四代目までの三遊亭圓生の合祀墓があります。そして、圓朝ゆかりの幽霊画コレクションでも知られています。
 しかし、ここで圓朝の幽霊噺というのはあまりに季節はずれですんで、圓朝作と言われる冬の噺を一席。
 江戸から身延山へ参詣に行った男、帰りに大雪にあって道に迷うてしまいます。山中の一軒家にたどり着き、一夜の宿を求めます。出てきたのは鄙には艶な年増。ところが、喉から襟元にかけて大きなアザがある。
 聞いてみると、元は吉原の遊女で、アザは心中をし損ねた時の傷だという。
 体も冷えているだろうと、お熊は男に卵酒を作る。男は疲れていたせいか、いくらも飲まないうちに眠気を催し、別間に床を取ってもらって横になる。
 お熊が薪を取りに出ている間に、入れ違いに帰ってきたのが亭主。残っていた卵酒をすっかり飲み干すと、苦しみだした。お熊は、男を殺して身包み剥ごうと卵酒には毒を入れておったんです。
 これを聞いた男は、たまたま持っていた小室山の毒消しの護符を雪で飲み込み、身体がきいてくるとそっと逃げ出した。
 そころが、たちまち見つかった。
 鉄砲を手にしたお熊に追われ、男は「南無妙法蓮華経」と唱えながら逃げます。絶壁に追い詰められて、下を見ますと、増水した鰍沢(富士川)の流れにいかだが見えた。滑り落ちていかだに乗りますが、流れだしや岩にぶつかってバラバラになった。一本の材木につかまって「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と必死に唱えます。崖の上から、お熊が男の胸元に狙いを定めます。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
お題目を唱えていると、銃声一発。
弾は、男のまげをかすめて後ろの岩に「カチィーン」と命中した。
「ああ、この大難を逃れたのもご始祖さまの御利益。お材木((お題目)で助かった」

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【歳時記と落語】冬になりますと風邪が心配です。

11月7日は立冬です。暦の上ではここからが冬ということになります。とはいえ、ようやく冷え込んできたという感じで、まだまだ冬本番には遠いですな。そもそも旧暦の季節の変わり目というのは、その兆しの頃になっているふしがあります。
 その季節の変わり目、冬の到来を告げるモンといいますと、これは「木枯らし」ということになりますやろな。「木枯らし」は「凩」とも書きます。木を枯らす風という思いを込めた字ですな。
 近畿地方ではこの4日に「木枯らし1号」が吹いたそうですな。今年は妙に暖かい日が続くと思うてたら、やっぱり昨年よりも6日遅かったんやとか。
 この「木枯らし」、気象庁の方では「10月半ばから11月末にかけて西高東低の冬型の気圧配置になった時に吹く、風速8メートル以上の北よりの風」という風に決めたあるんやそうですな。最初に吹いたのんが「木枯らし1号」。ということは、「2号」や「3号」もあるんやろうと思いますが、発表はないんやそうです。
 こうして寒うなってきますと、風邪の流行が心配ですな。流行性感冒てなことをいいますが、こちらは今は「インフルエンザ」と呼ばれております。いわゆる「風邪」というのは、「鼻かぜ」やとか「のどかぜ」やとかいうもんです。難しう言うと、「ライノウイルス」「アデノウイルス」なんぞというウイルスが原因なんやそうです。「インフルエンザ」は言うまでものう「インフルエンザウイルス」が原因です。症状の激しさには差はありますが、まあ昔は区別しておらなんだ。
 スペイン風邪やとか、大きな被害を出したんはインフルエンザやったそうですが、日本でも昔はインフルエンザで、ようけ人死が出たこともあったんでしょうな。被害が出んようにというので、風邪の神さんをよけるまじないというか儀式があちこちで行われました。「風邪の神送り」というやつです。
 紙で風邪の神さんの人形を作って、お供えもんをして、「どぉぞ風の神さん、ご退散を願います」と言うて、それからそれをみなで川へ運んで行て、放り込んで流してしまうんです。
 昔、大阪のある町内で風邪がはやったんで、風邪の神送りをしようやないかということになった。若い衆が風邪の神送りのための金を集めに町内を回りますが、なかなか思うようにはいきまへん。
 やっとのことで金が集まりますと、長屋の空き家に皆が寄り合いまして、人形を作ったり、お供えを用意したり、酒を買いに走ったり。
 準備が一切整いますと、皆で「どうぞ風邪の神さん、ご退散を願います」と、お祈りをいたしまして、日が暮れになりますと、これを川に流しに行きます。
鉦やら太鼓やら三味線やら持ち出しまして、神さんの人形を先頭に囃したてて川を目指します。
♪か~ぜの神送ろ ♪か~ぜの神送ろ
 ♪か~ぜの神送ろ ♪か~ぜの神送ろ
「さぁ、ここへ放り込め」
 ぼーんと川へ投げ込みますと、後も見んと帰ってきます。
 風邪の神さんの人形は川下へ川下へと流れてまいります。
 もうとっぷり日が暮れてます。すると川面に一艘の船が出ております。
 四つ手網で魚を獲っている、夜網というやつです。
 そうしますと、網にズシッと重たいもんがかかった。
「ゴモクにしてはえらい大きいんじゃが。何やろ?」
 網の中にかかっておりましたのか風邪の神の人形。大勢の人の気持ちが籠もったせいか、人形に精が入って、それへさしてズーッ!
「何じゃい、お前は?」
「わしは風の神じゃ」
「ああ、それで、それで夜網(弱み)につけ込んだか」

 長野県松本市の入山辺地区には、今でも藁で神さんの人形を作って川に流す「貧乏神送りと風邪の神送り」が行われておるそうです。もっとも、2月8日に行われるそうですが。

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直訴~ベロ出しチョンマ~神になった日本人

今、世間では直訴が話題です。田中正造は有名ですが、比べるのは失礼というものでしょう。
 将軍への直訴というのは、よく時代劇の題材にもなりますが、斎藤隆介の児童小説「ベロ出しチョンマ」もこれが一つのテーマになっています。この名作の元になったのが佐倉惣五郎。
 惣五郎は下総国佐倉藩の公津村(今の千葉県成田市台方)の名主で、藩主・堀田氏の苛政を将軍への直訴、妻子とともに死罪となり、死後に堀田氏を祟りました。堀田氏は改易、後に同族が佐倉藩に入封、惣五郎を祀ったことから、広く信仰されるようになったようです。
 怨念を残した人を慰めるために神として祀るというのは、日本人に特徴的なことではないかと思われますが、庶民というのは珍しいです。それでも、小松和彦氏の『神になった人びと』知恵の森文庫(2006)では、惣五郎とならんで増田敬太郎が紹介されています。
 増田敬太郎は佐賀県の警察官です。1895年10月21日、敬太郎はコレラが発生していた入野村高串(今の唐津市肥前町)に赴任し、予防法や衛生管理などを住民に説いて回りますが、23日にコレラを発症し、翌日「高串のコレラは私が背負って行きますからご安心下さい」と言い残して亡くなりました。
 その後、言葉どおりコレラが収まり、その献身的な行為に感銘を受けた村人は、秋葉神社の境内に敬太郎を祀りました。それが今の「増田神社」です。
 この増田敬太郎と同様に、庶民のために尽くして神となった警察官が、ほぼ同時代の台湾にいました。森川清治郎です。1897年、台南県大坵田西堡副瀨庄(今の嘉義県東石郷副瀬村)に赴任した清治郎は、半農半漁のこの村で治安維持のみならず、読み書きを教え、公衆衛生の大切さを説き、村人から慕われました。1901年に漁業税が制定されると、役所に税の減免を嘆願、住民を扇動するとは不届きと訓戒処分に処せられ、1902年4月7日、自分の至らなさを村人に詫びて自殺しました。
 1923年、村にコレラなどの伝染病が流行した時、村長の夢枕に清治郎が現れて助言を告げます。その結果、村は救われました。村人は、清治郎に感謝し、「義愛公」と称して祀りました。
 今も祭事は続けられていて、森川家が途絶えたので、妻・兜木ちよ一族の方が時折参られています。
 ちょっと有名な方では、昭和天皇の万年筆のペンニブを作った兜木銀次郎氏、その大甥で『ヱヴァンゲリヲン研究序説』の著者・兜木励悟氏がいらっしゃいます。

​ 今回、これをまとめるにあたって、検索してみて、​兜木励悟氏が本年1月2日になくなっていたことを知った。十五年くらいお会いしないままに、お別れになってしまった。どうして見落としていたのか。
どうか安らかに。

【落語と歳時記】落語と手塚治虫

 11月3日は、文化の日です。1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日に由来するのはご存知の通りです。しかし、これは偶々公布がこの日になったんやないんです。戦前までは11月3日は明治節、明治時代は天長節でした。つまり天皇誕生日やったんですな。それにあわせて、憲法を公布して祝日にしたんです。
 東南アジアからインドにかけて、ヒンズー教の国々では「ディーパバリ」、お正月にあたり、「光の祭典」とも呼ばれます。その名のとおり、街中が飾り立てられて、明かりが灯されます。シンガポールでは暦の関係で当初の見積もりからずれて、一日前の2日になったそうですが。
 もう一つ、大阪もんが忘れてはならんのが、この日が手塚治虫先生の誕生日やということ。「マンガの神様」といわれる手塚先生が、宝塚歌劇のファンやったことはよう知られてますが、落語とも関わりが深いんです。
 立川談志師匠とは親交が深く、談志師匠は「ジャングル大帝」に声優として出演もされています。元々は談志師匠が手塚先生のファンやったことから始まった付き合いやったようですが、漫画家・手塚治虫の根っこのところに落語が関わっているんです。このことは手塚先生ご自身が「ぼくと落語」というエッセイ(「談志ひとり会パンフレット1988年2月9日。のち『手塚治虫エッセイ集』第6巻所収)に書いておられます。
 昭和21年、二代目桂春團治師匠の依頼で、戎橋小劇場での催し物のポスターを描いておられます。当時、既に『小国民新聞(毎日小学生新聞)』で「マァチャンの日記帳」連載をしておられましたが、まだまだ知る人ぞ知るというところやったでしょう。人伝に春團治師匠が、マンガを書いている学生がおるというのを聞いて、依頼されはったらしい。出し物は「二人羽織」「粗忽の釘」と「明烏」の落語芝居やったそうです。
 当時、手塚先生は宝塚に、春團治師匠は清荒神にお住まいやったそうで、「落語家にならへんか」と誘われて、何度か手塚先生は師匠のお宅にお邪魔したようです。
 それだけやのうて、クラスメートの前、そして田河水泡氏のパーティーでも落語を披露したこともあるそうです。
 なお、その手塚先生初のポスターは、記念館に展示されています。
 さて、今回はその春團治師匠の依頼で描いた中から、「粗忽の釘」をご紹介しましょう。上方では「宿替え」という方が通りがええですな。

 ある夫婦が宿替えをいたします。男が大きな風呂敷に荷物を入れて運ぼうとすると持ち上がらない。重いのやろうと荷物を減らしてもダメ、よう見たら敷居も一緒に括ってした。
 先に男が荷物を持って出て、嫁はんは後片付けをして新居へ。ところが先に出たはずの男はまだ着いていない。道中チンドン屋に付いていったり、溝にはまったおばあさんを病院に連れて行ったり、ドタバタした挙句に、掃除が終わった頃に汗だくになってたどり着いた。
 嫁さんに箒をかける釘を打ってくれと言われて、「偉そうに言っても女じゃ、釘の一本も打てやせん」と得意になって、根元まで打ち込んでしまいよった。
 嫁さんに怒られて、隣に詫びに行かされますが、なんや話が通じない。それもそのはず、慌てもん、真っ直ぐ向かいの家へとびこんでよった。慌てて今度は隣の家へ参ります。
「で、釘はどのへん打ちなはった?」
「日めくりの掛かってあるちょっと横手です」
「あんたの家のどこに日めくりが掛かったあるか、うちから分かりますかいな」
「帰ってどこならどこ、ここならここと叩いてみなはれ」
 教えられて、自宅に戻った男、釘のところを金槌で叩いて、
「ここならここぉー、どこならどこぉー」
「大分アホやで、言われたまま言うとるがな。何や、阿弥陀さんの喉の横手からにゅっとでたあるがな!」
 大慌てで男を呼び戻します。
「あんたとこ、あんなところに箒かけたはりますのか?」
「何であんなとこに箒かけまんねん。あんたが打った釘やないか」
「あぁ、うちのですか。これは困ったなあ。」
「何が困りまんねん?」
「毎日ここまで、箒を掛けに来んといかん」

二代目 桂春團治 ライブ十番
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