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【歳時記と落語】二百十日と地震

9月1日は雑節の一つ、二百十日です。その名前の通り、立春から数えて210日目に当たります。時季としましては、稲が実をつける頃ですが、それと同時に台風の多い時でもあります。その目安として、暦に記されるようになった。実際に昔から伊勢の船乗りたちは、この日を凶日としてたんやそうで、言うてみたら生活の知恵ですな。まさに、いま台風15号が太平洋ベルト直撃かという針路でやってきておりますな。
 そんなわけですから、台風の害から農作物を守る為の風鎮めの祭りが行なわれきました。それが今でも日本各地に残っております。富山県富山市八尾町の「おわら風の盆」なんかが有名です。
 そんな二百十日の落語というと、これは直接の関係はなかなか難しいんですが、落語が二百十日に影響したという話はあります。
 なんのこっちゃ、と思われるかも分かりませんが、夏目漱石の『二百十日』のことです。 そもそも明治の文言一致、話し言葉で文章を書くという流れには三遊亭圓朝の速記本が大きな影響を与えたとも言われておりますんで、落語と文学というのは縁が深いんですが、漱石が落語好きやったというのは有名な話で、『三四郎』の中にこんな一節があります。

小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢやない。何時でも聞けると思ふから安つぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。――圓遊も旨い。然し小さんとは趣が違つてゐる。圓遊の扮した太鼓持は、太鼓持になつた圓遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。圓遊の演ずる人物から圓遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ、小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。

 作中の人物の言葉とはいえ、漱石自身がよほど落語好きで聴いておらんと出てこない言葉ですな。
 さて、『二百十日』ですが、その冒頭はこんな感じです。

ぶらりと両手を垂さげたまま、圭けいさんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行あるいて来た」
「何か観みるものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏いちょうの樹きが一本、門前もんぜんにあった」
「それから」
「銀杏いちょうの樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」
「這入はいって見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」

 これが漱石の小説か、と思うほどにセリフばっかりなんですな。しかもその会話が微妙にかみおうてません。これはまさに喜六と清八、江戸ですと熊と八のやり取りです。その他にも「浮世床」や「愛宕山」を思わせるような場面もあります。(これについては、水川隆夫『漱石と落語』に詳しい)

 また、9月1日は1923年に「関東大震災」が起こったことから、昔からの厄日の考えとあわせて、災害について考える「防災の日」に定められております。
 地震の落語というのも、ないんですが、まあ小咄はないことはない。

新婚夫婦の初夜の話や──。二人で枕を並べて寝てたところ、食べたもんの都合が嫁さんの方は、なんやお腹の方がはってしようがない。嫁いできたばっかりで、こんな粗相しでかしたら愛想付かされてしまうと我慢をしておりますが、出物腫れ物ところまわず、ついに一発おならをしてしもた。慌てて横を見ると、旦那は寝息を立ててる様子ですが、もしも聴かれてたら、明日の朝どんな顔してええやわからん、心配になって、旦那の肩を叩いて、
「ちょっと、ちょっと起きて、あんた」
「ん、なんや」
「今のん、気ぃついた?」
「何が?」
「何がて、今の…地震」
「えっ、地震あったんか。ちょっとも知らなんだがな。屁の前か後か?」

 それから、こんな話もあります。
 ある日、年頃の男が親に黙って、家の二階へ恋人を連れ込んだんですな。朝早う起きて、親が寝ている内に帰したええと思うてたんですが、よほど疲れたのか、起きてみますとお陽さんもすっかり昇って、下は朝餉の気配です。
ええい、しょうがない、と覚悟を決めてなんでもない風に装って下へ降りてご飯を食べ始めます、
すると父親が
「昨日の夜中な、なんや天井がガタガタギシギシいうとったが、なんやったんろな?」
息子は一瞬うろたえますが、それを隠して
「はァ、地震があったみたいですよ」
「そうか、地震か」
そのまま話は終わり、食事を終えて息子が二階へ戻ろうとすると、父親が一言。
「おい、二階の地震にも朝飯食わしてやれ」
 まあ、なかなか粋な親父さんがあったもんで。

黄飛鴻生平事跡と銀幕上の傳説(転載・加筆)

1.実在の黄飛鴻

出典:wikipedia

黄飛鴻は実在の人物である。
一名、飛熊(鴻と熊は広東語では同音)。1847年広州南海県西樵に生まれた。父は〈広東十虎〉の一人に数えられる黄麒英である。
黄麒英は若い頃貧しく、街頭で武芸を売り物にして生活をしていた。ある日、洪家拳の陸阿采に見いだされて弟子となり、十年ほどでその神髄を得て、鎮粤将軍の兵の教練をつとめる。しかし、月に三両六銭という微禄であったため、靖遠街に薬店「寶芝林」を開いた。
黄麒英ははじめ息子・飛鴻に学問をさせたく思っており、武術の修行をさせなかったとも言う。このあたりは李連杰「霍元甲」で描かれた霍元甲と父親の関係によく似ている。しかし結局の所、黄飛鴻は幼い頃から父が他界する16歳まで、父・麒英に武術を学び、12歳の頃にはすでに家伝の武術をすべて修得してしまった。また、父の師である陸阿采にも師事したという。更に〈広東十虎〉の一人・鉄橋三の鉄線拳を、その弟子である林福成について学び、宋輝鏜から鉄線拳との交換教授で北派拳法由来の蹴り技の極意を習得した。あまりに素早く絶妙な黄飛鴻の蹴りは、〈無影脚〉と呼ばれた。どちらかというと手業が主という印象の洪家拳にあって、やや意外な感のある〈無影脚〉は、実は北派由来だったのである。
又、獅子舞の名手で、獅王とも称された。徐克の第三作「獅王争覇」はまさにこのエピソードに基づいている。
黄飛鴻は薬店「寶芝林」を父から受け継ぎ、各地を行商で廻った。その頃には「寶芝林」は広州仁安街26号に移転しており、更に黄飛鴻の代になって薬店兼病院兼武館という様相を呈するようになっていた。因みに「寶芝林」とは、夏重民の詩「宝剣出筺、芝草成林(宝剣筺を出ずれば、芝草林に成る)」から取ったもので、英雄いるところ必ず栄えるという意味である。ここで黄飛鴻は多くの門弟に武術を教え、医術で多くの人々を救った。

劉永福(出典:wikipedia)

一方、南澳総兵に任じられた劉永福(注1)に招かれ、〈黒旗軍(注2)〉でも武術の基礎を教授した。また一説には、台湾守備を命じられた劉永福に従い、黄飛鴻も台湾に渡って抗日運動に参加していたという説があることも付け加えておく。 なお、黄飛鴻の弟子である林世栄や陳殿標も、各地の軍で教練を勤めた。 〈黒旗軍〉将軍劉永福の元を去った後は、薬業に専念し、民国に入る頃には、民団(民間の自衛組織)の教練を務めていた。しかし、それが後に、長男漢林を失う遠因となってしまう。黄漢林は父に学んだ武芸を生かし、民間の自衛組織・保商衛旅栄の護勇(警備会社のガードマンのようなもの)を務めていたが、同僚のといざこざの末、酒に酔ったところを拳銃で撃ち殺されてしまったのである。
ここで、一つのエピソードを紹介しておこう。民国時代、黄飛鴻は一度香港に渡ったことがある。「寶芝林」の分館を開いていた弟子陸正剛に招かれてのことだった。しかし、陸正剛の弟子がトラブルに巻き込まれているのを知り、解決に乗り出した黄飛鴻は多くの人に怪我を負わせてしまい、広州に帰らざるを得なくなってしまったのである。因みに、林世栄と凌雲階は、逆に広州で敵を得て相手に怪我を負わせ、広州にいられなくなり香港に脱出した。
1923年、広州の商団(商業金融業者の武装自衛組織)が政府の弾圧と強制武装解除に反発しついに反乱を起こした。その被害は仁安街にも及び、「寶芝林」も焼失してしまう。その失意の為か、黄飛鴻も病に倒れる。そして、翌1924年、野において多くの人々に武術をもって自強愛国を諭し、医術薬術をもって貢献し、為に民衆に愛された黄飛鴻は、城西方便病院で病没した。享年77歳であった。彼の亡骸は弟子の手で広州観陰山の山頂に葬られた。
黄飛鴻の人生は混乱期に生きた人にふさわしい波乱に満ちていたと言えようが、不幸なことに、それは彼の家庭の中にも及んでいた。黄飛鴻は、生涯に四人もの妻を娶っていが、一人目の羅氏は結婚後わずか三ヶ月で病を得て鬼籍には入ってしまった。次に結婚した馬氏は、漢林・漢深の二子を生むが、またも病没。そして、前述の通り、長男漢林は民団絡みのトラブルに巻き込まれて殺されてしまった。三人目に娶った岑氏との間にも、漢枢・漢煕の二子が生まれたが、またもや妻に先立たれてしまう。
そして晩年になって、弟子であった莫桂蘭を四人目の妻として迎える。後年、莫桂蘭は黄飛鴻の弟子たちと香港に黄飛鴻武館を設立し、黄飛鴻直伝の洪家拳を継承した。彼女は、1970年代に世を去るまで、武術指導と治療を続けており、まさに黄飛鴻の精神をも受け継いでいた。
さて、黄飛鴻は単に民衆に愛された在野の英雄というに留まらない。実に近代洪家拳の歴史において重要な存在なのである。彼がよくした洪家拳は洪熈官が創始したといわれる拳法であるが、現在伝わる洪家拳はその殆どが黄飛鴻の系統であり、その系統は香港を拠点としている。それには林世栄や凌雲階、馮栄標といった傑出した弟子を育てたこと、そして彼らが莫桂蘭とともに、香港で名を挙げ、多くの弟子を育てた事が大きな影響を与えているのだろう。蛇足ながら、現代香港映画界を代表するアクション指導の劉家良(注4)・劉家栄の父・劉湛も、黄飛鴻小説を発表した朱愚斎も、林世栄の弟子であり、現在日本で洪家拳の指導を行っている劉湘穂氏も林世栄系である。
その後の大きな動きでは、1996年に、黄飛鴻の故郷である広東省南海市の西樵山旅游度假区嶺西禄舟村に、彼を記念した「黄飛鴻獅藝武術館」が設立された。黄飛鴻の生家や「寶芝林」が再現されているほか、武術・舞獅・舞龍の表演や指導が行われている。

2.〈黄飛鴻〉電影

2-1.伝説のはじまり

さて、近代武術史上の巨人・黄飛鴻が電影史上のヒーローとなったのは、一つの偶然といくつかの必然によっていると言われている。 そのまえに、前史として、黄飛鴻物語の歴史を見ておこう。 1920年代、武侠・功夫電影が始まったのと相前後して、清代の侠義小説からはなれて、新しい〈武侠小説〉、今日〈旧派武侠小説〉と呼称される一群の小説群が登場する。その中に、南派少林寺の伝説に取材した作品を手がける作家たちが存在する。もっとも初期の作家に、1931年から、清末の『聖朝鼎盛万年青』に取材して南派少林寺『至善三游南越記』『少林英雄決戦記』などを著し、香港武侠紹介の鼻祖となった鄧羽公がいる。その鄧羽公の著作の中に『黄飛鴻正伝』があり、その影響を受けた作家たちの中に、林世榮の弟子でもあった朱愚斎がいた。朱愚斎は鄧羽公の『黄飛鴻正伝』の後を受けて、『黄飛鴻別伝』を著した。黄飛鴻の孫弟子に当たる人物の手になるだけに、その作品は真実をよく語っていると言われている。また、1938年に高小峰が広東語を交えた『黄飛鴻』を上梓し、広東語圏の人々に人気を博した。〈黄飛鴻〉電影誕生以前に、黄飛鴻の名は世に広まっていたのである。
それでは、話を電影に戻し、まずは一つの偶然から話をしよう。それは、黄飛鴻映画化にまつわるエピソードである。 1949年の秋、映画監督の胡鵬は友人の呉一嘯とともに、九龍から香港島に渡った。そこで彼がたまたま手にした「商工日報」に朱愚斎の黄飛鴻小説が載っており、そこには、呉一嘯がかつて黄飛鴻に師事したと書かれていた。驚いた胡鵬が側にいた呉一嘯に尋ねると、呉一嘯は武術など全く出来ないし、ましてや黄飛鴻に拝師したことなどない、朱愚斎の創作だ、と答えた。この一件にインスピレーションを得て、胡鵬は〈黄飛鴻〉電影を創ったというのである。 さて、呉一嘯が脚本家として協力し、シンガポール華僑温伯陵が資金面で協力することで、胡鵬は次々と〈黄飛鴻〉電影をヒットさせていき、羅志雄、王天林(のちに「黄飛鴻之鐵鶏鬥蜈蚣」を撮る王晶の父)、凌雲といった監督たちも〈黄飛鴻〉電影を手がけてゆく。1950年代には、全部で62本もの〈黄飛鴻〉電影が作られた。しかし、その内の53本が胡鵬監督作品であり、とくに1956年には、胡鵬一人で23本も〈黄飛鴻〉電影を撮っている。1960年代にはいると、胡鵬の後を受ける形で、王風が〈黄飛鴻〉電影をとり続けることになる。 そのヒットの背景には、いくつかの必然があった。香港の人々の多くが、黄飛鴻と同じく広東出身であったことが挙げられる。郷土的な共感である。映画中によく登場する舞獅は黄飛鴻の得意であったが、これも広東の風習である。 次に、黄飛鴻は接骨医であり武術家であるので、医をもって人を救い、武をもって人を救うことが出来ることがある。つまり人物的な魅力と、幅広い物語展開の可能性とを内包していたとも言える。その反映の一つが、胡鵬によって映画が創られたとき、黄飛鴻物語はすでに新聞紙上で人気を博しており、多いときには七紙にも掲載されてたことである。映画のヒットはこの新聞紙上での小説との相互作用によるところも大きいと考えられる。さらにいえば、当時は黄飛鴻の弟子や孫弟子など、黄飛鴻を直接知る人々も多く、それらの人々が物語の源や観客となったことも考えられる。

2-2.銀幕の中の黄飛鴻

1949年、胡鵬監督・朱愚斎脚本によって創られた記念すべき最初の〈黄飛鴻〉電影「黄飛鴻傳上集・鞭風滅燭」において、黄飛鴻に扮したのは、粤劇出身で南派拳法の高手關德興(注3)である。それ以降、1981年の「勇者無懼」まで、テレビシリーズまで含めれば關德興は劇場作品77本、テレビシリーズ13本で黄飛鴻を演じ続けることになる。さらに、映画を離れても「黄師父」と呼ばれていた關德興であるが、後年、漢方薬局を開業し、気功治療を行うなど、私生活でもまさに黄飛鴻さながらの活躍を見せた。 關德興版〈黄飛鴻〉には、香港功夫電影史上に名を残す俳優たちや後の監督たちが名を連ねていた。梁寛役には、300本以上の映画に出演したベテラン曹達華、林世榮役には、その弟子でもある劉湛、その他、李小龍主演の「龍争虎鬥(燃えよドラゴン)」で敵役のハンを演じた石堅、成龍主演の「酔拳」で師匠の蘇化子を演じた袁小田などが出演していた。のちに「武状元黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ天地黎明)」で印象的な〈鉄布衫〉嚴振東を演じた任世官の姉である任燕もしばしば出演していた。また劉湛の息子で、後の名監督劉家良も、「黄飛鴻花地搶炮」「黄飛鴻怒呑十二獅」など多数に出演している。 後の映画界を支える才能を育んだという意味でも、關德興版〈黄飛鴻〉は、香港電影史上に偉大な足跡を刻んでいるのである。 更に重要なことは、關德興版〈黄飛鴻〉、すなわち胡鵬・王風版〈黄飛鴻〉は〈黄飛鴻〉電影のパターンを決定づけたという事実である。

  • 黄飛鴻は、義侠的英雄、洪家拳宗師であり、伝統的武徳と民族的美徳、家父長的家族観念を体現する存在として描かれる。
  • 黄飛鴻の本拠地として「寶芝林」があり、「尚武精神」と書かれた扁額、「我武維揚」「虎躍虎騰」と書かれた小扁が飾られている。
  • 〈いたずら者〉の梁寛、〈出っ歯〉の爆牙蘇(「爆牙」が出っ歯という意味である)、〈馬鹿正直〉の猪肉榮(林世榮)などの弟子のキャラクター。
  • 民間自警団の練武が登場する。
  • 民族精神の象徴ともいうべき「将軍令」がテーマ曲として使われる。
  • はじめ悪の横行を忍んで耐え、最後に悪を討ち滅ぼすという勧善懲悪のストーリー展開。

ここで注目しておかなければいけないのは、黄飛鴻が理想の家父長として描かれているという点である。一方彼の弟子たちは人間的な弱点を特徴的に有している。「寶芝林」という家族・師弟関係の内部におけるもめ事は、必ず家長たる黄飛鴻が宥め教訓を加えることで解決される。外からふりかかるもめ事に対しても、まず黄飛鴻が解決に乗り出す。その際、まず礼をもって相手に接し、彼の〈武〉は、相手の非道がこれ以上は忍ぶことが出来ないと言う段階にいたって初めて用いられる。しかも、勝利の後には相手を赦し、その医術でもって癒し、善に導き、自ら悔い改める余地を残すのである。それは非常に儒家的な倫理道徳観である。つまり、ここの黄飛鴻は「仁義礼智信厳勇」の体現者なのである。 その後に作られた〈黄飛鴻〉電影では、自身も關德興版〈黄飛鴻〉に出演していた劉家良の監督した「陸阿采與黄飛鴻」「武館」が、この特徴をよく受け継いでいる。黄飛鴻-林世榮-劉湛-劉家良と受け継いだ真正洪家拳に基づくアクション指導が特色であり、「その映画には伝統的な武徳精神と家族観念を有している」と評されている。


1970年代末、すでに定着していた黄飛鴻=伝統的武徳の象徴という図式を覆した、革命的作品が登場する。袁和平(注5)監督・成龍主演の諧趣功夫片(コメディー・クンフー)第二弾「酔拳(ドランク・モンキー酔拳)」(1978)である。 南派拳法の代表格である洪家拳宗家の黄飛鴻が、典型的な北派拳法の酔八仙拳を得意としたはずはなく、その二つを組み合わせたことが「酔拳(ドランク・モンキー酔拳)」の、つまりは袁和平のオリジナリティと、我が国では言われていた。しかし、実は、關德興版〈黄飛鴻〉の一篇「黄飛鴻醉打八金剛」(王風1968)において、黄飛鴻は酔八仙拳を披露していたのである。しかも、猿拳を使う袁小田(「酔拳」で蘇化子を演じている)と戦っているのである! 「酔拳」が画期的であったのは、酔八仙拳の使用などではなく、老成した英雄的武術宗師という黄飛鴻の形象を一変させたことである。まず、まだ武術家として大成していない青少年期を描いたこと、そして、青少年期の黄飛鴻を「どら息子」として描いたことである。このあたりの設定は、成龍の親友である洪金寶監督・元彪主演の「敗家仔(ユン・ピョウINどら息子カンフー)」(1981)で、実在の詠春門高手梁賛を「どら息子」として描いているのと似通っていて面白い。
その設定によって、蘇化子による特訓場面を延々と見せるという演出も活きてくるといってよい。そして、成龍のコミカルな演技と相まって、「酔拳」は香港のみならず日本でも大ヒットを記録し、成龍を一気に大スターに押し上げた。
実は、この「酔拳」登場の前年、黄飛鴻のイメージの一変を狙った作品群が作られている。それが、1977年に始まった13本のテレビシリーズである。 蔡継光、黄百鳴、黎偉民、高志森、黎永強、呉昊らのスタッフによって作られたこのシリーズでは、封建社会を軽視し、伝統に挑戦するという、今までとは180度転換した〈黄飛鴻〉のイメージが提示された。清末民初の動乱期という社会背景を絡めて、彼の弟子たちがいかにして帝国主義の侵略に抵抗し、甚だしくは五・四運動に参加し、革命に身を投じていったのかを描き出した。ちょうど、当時の香港では植民地支配に反対する学生運動が盛んな頃であり、そうした社会背景を反映していたと言えるだろう。一説には、そうした政治性は、自身が抗日運動に参加していた關德興の長年の意見でもあったという。
關德興、すなわち胡鵬・王風版が旧〈黄飛鴻〉の代表であるならば、新〈黄飛鴻〉の代表は、黄霑のアレンジによる「男兒當自強」も雄壮に登場した李連杰(および趙文卓)、つまり徐克監督作品〈ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ〉シリーズの〈黄飛鴻〉と言うことになるだろう。

徐克は、まず復讐劇を一切排除し、単純な勧善懲悪の物語を拒絶した。かつての〈黄飛鴻〉電影が善と悪の衝突の物語であったとするならば、徐克の〈黄飛鴻〉電影は、中国と西洋との政治的軋轢と衝突を社会背景とする、保守伝統と近代西洋化との対立の物語であると言って良い。そして、黄飛鴻は医師としてあり武術家として名をなした存在という形象は維持しつつも、そうした社会状況の中で西洋近代文明や文化に接してとまどう青年という側面を与えられている。
例えば、「武状元黄飛鴻(天地黎明)」では、最大の対立勢力は中国人を奴隷として海外へ売りさばいていたアメリカ人商人たちである。また、冒頭に劉永福から「不平等条約」の扇子を託されることを見ても、中国と西洋の対立が大きな主題となっていることは間違いないだろう。そして欧米列強がもたらした鉄砲や、十三姨がもたらすカメラや洋服、西洋思想を前にして、黄飛鴻は「中国は変わって行くべきなのか」という悩みを抱えるのである。
また、単純な勧善懲悪の否定という側面の象徴として、対立構造の複雑化が挙げられる。上記の西洋と中国の対立に加え、西洋との対立という局面においては協力関係にあるはずの官憲とも、自衛団の教官としての黄飛鴻は対立してゆくことになる。また、その原因として黄飛鴻=自警団と沙河幇との江湖の衝突がある。しかも、この中で単純に悪として割り切れるのは沙河幇の連中だけである。沙河幇に助勢し、黄飛鴻と対決する〈鉄布衫〉の嚴振東との対立は、明らかに善と悪との二項対立では語ることが出来ない。嚴振東は伝統社会の代表者であり、名利を求める流浪者である。彼と黄飛鴻との差は実にわずかなものでしかない。劇中では描かれていないが、史実では黄飛鴻の父・麒英は、若い頃は貧しく、ちょうど嚴振東のように武芸を見せ物にして口に糊していた。また、嚴振東は決して黄飛鴻の〈敵〉ではない。彼が黄飛鴻によってではなく、西洋人の銃弾によって倒される事が、それを象徴的に物語っている。いわば、嚴振東は〈頑迷な中国〉という伝統社会の一側面の象徴であり、そういう意味において、かれは「負の黄飛鴻」である。 ここまでを纏めれば、徐克は黄飛鴻を中心において、西洋・官憲・民間との対立構造を作り上げ、その中で近代化を否定する〈頑迷な中国〉を批判していると言える。
第二弾「男兒當自強(天地大乱)」においても、中国近代化の象徴ともいうべき孫文(注6)と黄飛鴻の交流を描いたことによって西洋と黄飛鴻との対立が無くなるという変化はあるが、西洋・官憲・民間の三者が互いに対立する構造は変わらない。民間の代表が、盲目的且つ狂信的に西洋文明の排除を行う白蓮教徒と、熊欣欣演ずる教祖九宮真人(クン大師)であり、官憲の代表が、中国の尊厳を守ろうとしつつも孫文に象徴される近代化を拒絶する、シリーズ最強の敵役・甄子丹演ずる納蘭元述提督である。現実問題としては孫文を悪として描くことはできないのだが、朝廷・官憲側から見れば、孫文は「革命」をもたらす秩序の破壊者であるから、納蘭元述が孫文と黄飛鴻の前に「敵」として立ちふさがったとしても、彼を「悪」とは言えまい。やはり、ここでも黄飛鴻と対立するのは〈頑迷な中国〉であって、決して単純な「悪」でない。よって、黄飛鴻も又単純な正義ではあり得ない。
ここで述べた徐克版〈黄飛鴻〉の形象は、かつての家父長的形象を払拭したものであり、清末民初という中国の動乱期を社会的背景として作品中に反映させている点において、一見1977年のテレビシリーズのそれに近いように思える。しかし、そこには歴然とした差違が存在している。1977年のテレビシリーズでは、伝統的な儒教倫理の体現者という衣は脱ぎ捨てても、黄飛鴻は絶対的な善であり、そこに自らの路程に対する悩みは存在していない。進むべき路は決まっているのである。一方の徐克版〈黄飛鴻〉では、黄飛鴻は絶対者ではない。進むべき方向についての不安も、悩みも、そして意地も存在している。端的に言って「黄飛鴻は何処へ行くのか」に「中国は何処へ行くのか」を投影した物語、それが徐克版〈黄飛鴻〉である。
徐克版〈黄飛鴻〉において、黄飛鴻の形象以外で注目すべきは、十三姨の存在である。 十三姨と黄飛鴻の恋愛の行方は、シリーズ全体のもう一つの主題となっている。十三姨は血の繋がりのない干姨媽とはいっても叔母であるから、彼女との恋愛は旧社会においては禁忌であるということを抜きにしても、黄飛鴻の恋愛が主題となったことはそれまでほとんどなかったのである。また、帰国子女であり、洋服を纏い、外国語を話し、カメラを愛用し、中国食よりも西洋料理に馴染んでいるいる十三姨は、黄飛鴻にとってもっとも身近な西洋である。その意味において、十三姨と黄飛鴻との間に恋愛感情が成立している以上、黄飛鴻は西洋と近代化を拒絶することは出来ないのだと言っていい。西洋を否定することは、十三姨を否定することになるからである。そして、黄飛鴻は、西洋文明の家庭教師たる十三姨を通して西洋文明を学び、伝統との間でバランスをとり、悩みながら近代化に臨んでゆくのである。


【注】
1 劉永福……1837-1917。字は淵亭。1873年から〈黒旗軍〉を率いてベトナムでフランス軍に抗戦し、後に清朝が正式にベトナムに出兵した際に説得され、共同戦線をはった。1985年以降の〈清仏戦争〉でも活躍し、南澳総兵に任じられ、また民族的英雄となった。1895年、台湾守備を任命されて日本軍と戦闘を繰り広げ、台湾でも英雄視されて、「劉二打番鬼、越打越好涕」と民間で謡われる事になる。しかし、清朝そのものに台湾を守る意志がほとんどなかったため、実質的には民間ゲリラが主力であり、劉永福軍は戦闘らしい戦闘をすることなく孤立瓦解した。

2 黒旗軍……太平天国の残党・劉永福(1873-1916)が中越国境地帯の保勝(ラオカイ)において組織した一種の私兵。徐克の「武状元黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ天地黎明)」の冒頭に登場したのが〈黒旗軍〉であり、黄飛鴻に「不平等条約」の書かれた扇子を託したのが劉永福である。

3 關德興……1905-1996。広州市出身。武術家黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)の役で1940年代から1980年代の間に少なくとも77本の映画に出演した。映画史上、同じ人物をこれほど何回も演じたケースは他にない。そのため世界最長シリーズとしてギネスブックに登録された。シリーズ以外のものもあわせて計130本以上の映画に出演した。1955年に香港中国人芸術家協会(en:Chinese Artist Association of Hong Kong 香港八和會館) の会長に選ばれた。1983年には大英帝国勲章メンバー(MBE)を授与されている。

4 劉家良……1937年、劉湛の息子として生まれる。幼い頃から武術を学び、1950年に映画デビュー。1963年に「南龍北鳳」で初めて武術指導を担当する。1975年、コメディー色を取り入れた「神打」で初監督。「陸阿采與黄飛鴻」(1976)「少林三十六房(少林寺三十六房)」(1978)など義弟劉家輝を主演に起用して次々にヒット作を連発。今日まで第一線で活躍を続けている。なお、徐克監督作「武状元黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・イン・チャイナ天地黎明)」で武術指導を務めた劉家榮は家良の実弟である。

5 袁和平……袁小田の息子で、劉家良と同じように、幼くして武術を学び、若い頃から〈黄飛鴻〉電影に出演した。1970年ごろから武術指導をはじめ、1978年、成龍主演のコメディ・クンフー「蛇形刁手(スネーク・モンキー蛇拳)」で監督としてデビューし、続く「酔拳」とともに大成功を収める。以後もヒットを重ね、とくに、「笑太極(ドラゴン酔太極拳)」「蘇乞兒」「少年黄飛鴻之鐵馬騮」など甄子丹主演作の多くを手がけている。また、ウォシャウスキー兄弟に招かれて、ハリウッド映画「マトリックス」でアクション指導をつとめて注目を集めた。なお、徐克監督作「武状元黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・イン・チャイナ天地黎明)」で武術指導を務めた袁祥仁・袁信義は和平の実弟である。

6 孫文……1866-1925。字は逸山、中山。「男兒當自強(天地大乱)」では字の逸山をもって呼ばれていた。周知のごとく、近代化と革命運動を推進した、近代中国創立の中心人物。現在も中台双方で「国父」と尊称されている。 なお、「男兒當自強(天地大乱)」に孫文の協力者として登場した陸皓東は実在の人物で、実際には1895年11月に広州で処刑されている。ラストで印象的だった「青天白日旗」はその年の二月、「農学会」の設立と同時に考案された。

【参考文献】
佐伯有一『中国の歴史8 近代中国』(講談社 1975年)
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浦川とめ『香港アクション風雲録』(キネマ旬報社 1999年)
『香港ムービーツアーガイド完全版』(BNN 1997年)
松田隆智『中国武術 少林拳と太極拳』(新人物往来社 1972年)
笠尾恭二『新版 少林拳決戦譜』(福昌堂 1999年)
陳墨『刀光侠影蒙太奇-中国武侠電影論』(中国電影出版社 1995年)
呉昊『香港電影民俗学』(次文化堂 1993年)
TRASH&香港電影探偵団『超★級★無★敵 香港電影王』(未来出版 1997年)
羅卡・呉昊・卓伯棠『香港電影類型論』(牛津大学出版社 1997年)
葉洪生『論剣―武侠小説談芸録』(学林出版社 1997年) 「羊城晩報」電子版1997年12月20日

【参考資料】
袁和平1978「醉拳(ドランク・モンキー酔拳)」
徐克1991「黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ天地黎明)」
徐克1992「黄飛鴻之二男兒當自強(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナII天地大乱)」
徐克1993「黄飛鴻之三獅王爭霸(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナIII天地争霸)」

2013夏 香港旅行記

8月8日から13日までの日程で香港に行ってきました。同行者はうちの連れ合いです。といいますか、行きたがったのは連れ合いの方なので、私の方が同行者という感じです。
8日、関西空港発CX567便で香港国際空港へ。エコノミーが満席なので、プレミアム・エコノミーに「ぷち」アップグレードしました。
香港国際空港では、フリークエント・パスの威力で、エクスプレス・ラインで入国、今回はここで「e道」の手続きを行いました。関空でも自動化ゲートの手続きをしているので、これでどちらも自動化されました。
空港ロビーに出ると、連れ合いは機場快線のチケット購入。私はその間に、セブンイレブンでSIMカードを購入。今回は中国移動のローカル・コール用にしました。携帯はSony Ericsson Xperia Mini Pro。以前に香港で購入したものです。
機場快線の中で、アクティベーションをかねて、先にシンガポールから来ている友人に電話。あいにく出ず。中国移動のSIMは最初のローカルコール時に自動でアクティベーションが行われるので、アナウンスに従って言語など決定すれば、いいだけ。
九龍駅からタクシーでホテルへ。いつもの旺角の朗豪酒店。到着は午後二時くらい。通常のレセプションではなく1865の方へ。チェックインはしたけれど、まだ時間が部屋が空いていないので、ラウンジ「PORTAL」でお茶をして待つように言われました。二人分のドリンクチケットをもらって、「PORTAL」へ。そこで再び友人に電話。待ち合わせの時間を決めました。近くのホテルだったので、暫くしたら出てこちらに来てくれるとのこと。
ほどなく、さっきのフロント係が部屋が空いたことを告げに来たので、飲み終わってからロビーへ下りると丁度友人から電話。部屋に入り、ポーターが荷物を持ってきてくれるのを待つ間にお土産の交換。友人も昼食を摂っていなかったので、ホテルの隣の朗豪坊へ。ロービーから連絡通路で朗豪坊の吹き抜けへ出られるが、そこはまさにハローキティーワールド
写真のトラムは実際に中に入って写真を撮ることができますが、それらキティを尻目に殺して「池記」へ。友人が頼んだのは忘れましたが、私たちは「雲呑水餃麺」と「水餃子のセットと「炸醤麺」と油菜のセット。「雲呑水餃麺」は蝦仔がたっぷりでいい出汁が出ている。フードコートに隣接してショッピングセンターに入っている小さなお店と侮るなかれ。ここも 蔡瀾先生行きつけのお店。香港では「ミシュランよりチャラン」です。

食事後に銅鑼灣の時代廣場へ。「高達基地Gundam Docks at Hong Kong」を開催中。これが今回の旅行の大きな目玉の一つ。3分の1サイズのガンダムとシャア専用ザクが表に。中には、十分の一の量産型ザク十数体とシャア専用ザク、そして巨大なホワイトベースが。
ホワイトベースは吹き抜けにワイヤーでつり下げられているので、下から見上げるという貴重な体験ができた。ちなみにこの写真は右舷から写した物。

その後、誠品書店なんかによりつつ、時間を見計らって夕食に。トラムに揺られて跑馬地まで。
言わずと知れた「竹園海鮮飯店」。いつもは尖沙咀のお店に行くのだけれど、今回はちょっと趣向を変えてみた。尖沙咀は日本人観光客も多いが、こちらはあまり多くはない。
鉄板メニューの「芝士焗龍蝦」と「椒鹽瀨尿蝦」、ジューシーさが堪らない「蒜茸焗貴妃蚌」、そして今回の目玉「黄油蟹」。溶けて前進に廻った黄色い油が濃厚。この時期にしか食べられない究極の蟹です。今回はまあ、この為に来たようなものです。
デザートのマンゴープリンがまた美味。

9日は、ゆっくりおきて12時前に中環の「鏞記酒家」に。些か待たされたので、もう少し早めに入るべきだったかな。
まずは、「皮蛋酸薑」。これはお持ち帰りとしても人気。皮蛋は検疫受けないでいいのでお土産にできるのもいい。野菜も食べないとということで「菜遠牛肉」を頼んで申し訳程度に。メインは「蜜汁叉燒」。看板メニューの「金牌燒鵝」は「化皮乳豬」も食べたかったので盛り合わせに。三人だったので、このあたりはしかたがない。やっぱり大人数でないと中華料理は楽しみにくいところがありますね。
腹ごなしという訳でもないけれど、トラムで湾仔まで。お目当ては有名な唐楼「緑屋」を改装した「動漫基地」。まだ半分くらいは未完成で、博物館的な展示しか見ることができなかった。完成すればレストランや図書館も完備されるらしい。
夕食は中環の「香滑咖喱屋」。前は威靈頓街にあったのが今は嘉咸街に移転。ここのカレーは香港式を謳っています。マトンマサラとチキンカレーを中辛で頂きました。注文時にライスとパスタが選べます。夜メニューは若干高くなるので、お昼時がお得。
友人が夜の飛行機なので、ホテルに荷物を取りに戻ってタクシーで九龍駅まで送って行きました。
分かれた後、駅直結のショッピングセンター「圓方」の「Chez Shibata」でお茶。愛知県に本店と数店の支店をもち、日本国内に展開せずいきなり香港と上海へ進出。以前TVにも取り上げられたことがあるお店。その番組は上海出店の時のものでしたが。頂いたのは、「coeur de bois」と「La vinus」。「La vinus」は日本国内では多治見店限定だそうです。
ざっと見て回りましたがHMVが閉店したので買い出しもできないので、上海灘をひやかしたりした程度。小巴で旺角に戻り、街を少し歩く。手近な「許留山」でマンゴージュースを買ってホテルに戻る。

10日は朗豪坊の「toast box」でナシレマとラクサ。シンガポール在住時代の懐かしい味。
MTRで金鐘駅へ行き、そこからバスで赤柱へ。街中は普通だけど、山道になるとどこの頭文字Dだという感じで、なかなか激しいものだった。まあ、落差のある急カーブだからしかたないのだけれど。
マレーハウスは一階部分が改装中で、二階以上のレストランしか開いていなかったのは残念でした。仕方が無いので、マーケットを眺めてお土産の花文字を買ったりしながら、旧赤柱警署を改装した「惠康」へ。クラシック建築のスーパーというのも変な感じですが、なかなかおもしろいものです。
帰りはバスで中環まで。IFCを覗いてから地下へ降りて香港駅のショッピングモールにある「添好運點心專門店」で夕食。元々は旺角にあった小さなお店。その味が評判を呼んで、ミシュランで一つ星を獲得。「世界最安値の一つ星レストラン」として有名になって、観光客が押し寄せるように。支店が増え、シンガポールにも進出。その一方で本店は色々あって北角に移転。これはニュースにもなっていましたね。
夕食ということで、「黄沙豬潤腸」「煎醸虎皮尖椒」「豉汁蒸排骨」「鮮蝦燒賣皇」「鮮蝦燒賣皇」「陳皮牛肉球」「酥皮焗叉燒包」と少し品数を多めに。
太子から旺角へ歩きながら買い物をし、ついでに歴史的建築の一つ「雷生春」を見学。今は大学の診療施設になっているようでした。
旺角に戻って、豉油街の「板前寿司」で夜食。わざわざ香港で寿司?という意見もあるでしょうがが、理由は和牛刺身。日本国内で生の牛肉は殆ど食べられないから。9時半を過ぎていたので、割引になっていましたが、十時を過ぎるとさらに値下がりします。
それにしても、随分街をうろついたが、DVDショップがほぼ壊滅状態だったのはショックが大きかった。ホテルから一番近かったお店も少し離れた所に移転していました。

11日も朝食は「TOAST BOX」。シンガポールといえばこれ!という「カヤトースト」と蝦醤入りソフトバン。朝食セットなので半熟卵付き。
朗豪坊も実は開店前。人が少ないうちにハローキティーを摂ってしまおうという作戦。
一通り撮り終え、バスで九龍城へ。「金田一少年の事件簿」でもロケしていた場所。かつては魔窟とも呼ばれたが、今はその面影はわずか。すっかり整備された公園になっています。

往時を偲ぶ展示物を見て、公園近くの「創發潮州飯店」で昼食。殆ど観光客は来ないだろうというお店で、潮州料理ではお馴染みの魚の揚げ物などの前菜というか付き出しというか、それらが無造作にテーブルにい置いてあり、メニューは壁に貼ってある物のみ。
どうしてそんな店に行ったのかというと、『蔡瀾常到的160 間食肆』に載っていたから。
実はあまりお腹がすいていなかったので、頼んだのは「潮州豬脚凍」「蝦仁煎蛋」「梅菜扣肉」の三品だけ。今から考えると、あまり潮州料理っぽくはなかったですね。
あまりに暑いので、近くの「小曼谷泰國美食」で龍眼水とライムジュース、仙草とフルーツ入りカキ氷で涼をとりました。
この界隈はタイの食材を扱うお店や料理店が多く、リトル・バンコクといった趣き。
また、どういう訳だか火鍋のお店も多かったです。
バスで尖沙咀に行ってHMV、ランガムホテル、1881Heritageを見て歩きました。

旺角にもどり、朗豪坊の地下にある「マーケット・プレイス」でドリアンを購入。タイ産ではなく、マレーシアの「猫山王」だが、もちろん丸ごとではなく、割って果肉を取り出してパックにしたもの。分解が始まる前は実に甘いいい匂いがする。これを罰ゲームだといって弄ぶのは、はっきりいって冒瀆である。
旺角から油麻地に向かって散歩。夕飯は途中で見つけた「雲南桂林過橋米線」で、新メニューと書かれていた「重慶酸辣薯粉」、それと「雲桂炸醤麺」をドライで。辛さは不安があったので中にしたがほどよい感じ。期待していなかっただけに、美味しくて大満足。
この日最後のおやつはホテル傍の「海天堂」の亀苓膏。

12日、夜には台風接近でシグナル1が発令されたが、日中は天候に問題なし。
昼食は素食をときことで歩いて行ける「常悦素食」へ。
「鳳梨叉燒酥」「蜜汁素叉燒」「沙嗲羊肉串」「脆皮素燒肉」「咕噜素球」「上海小籠包」を注文。どれも一見して素食つまり精進料理とは思えない。しかも大豆の粉や豆腐、湯葉を使って「肉」を作っているのだが、どれも弾力と繊維感がしっかりあって、素食・精進料理というイメージとはほど遠い「しっかり」とした満足感がある。こんなに「食欲」を満たすことに熱心で、果たして悟りがひらけるのだろうか。
彌敦道に出ておやつに「義順牛奶公司」で「薑汁燉奶」と「朱古力燉奶」を食べる。
MTRで觀塘のapmへ。こちらでは、「鉄腕アトム放送50周年展@ apm」が開催中。
ここにも巨大なアトムが。そして主題歌や名場面、手塚治虫先生のインタビューなんかの映像も流されていた。谷川俊太郎作詞のお馴染みの主題歌だけではなく、第二期のED「未来に向かって 〜ニュー鉄腕アトム〜」「ウランのテーマ」も流していたのが、なかなかマニアックだった。
私は、「ジェッターマルス」は覚えているが、この第二期は殆ど記憶にないのだが、連れ合いは「未来に向かって 〜ニュー鉄腕アトム〜」がちゃんと歌えた。
一通り見てグッズを買い、文房具店も物色し、おやつに「満記甜品」の「芒果班戟」を食べた。お腹が空いていれば「榴蓮班戟」も食べたかったところ。
油麻地の中南広場を物色して、旺角を散策して水月宮や東華三院の歴史的建造物もちらっと様子を伺う。
夕食は「常悦素食」と同じビルに入っている「滿江紅小甜甜」で四川料理。灣仔に本店があって、ここは支店らしい。なんでも甄子丹もお気に召したとか。記事によるとお薦めは田鶏らしいが、今回は、定番をチョイス。
「蒜泥白肉」「擔擔麵」「烏江水庫魚」「干煸四季豆」「歌楽山辣子鶏」。どれもほどよく「辣」にして「麻」、本格的な四川料理だった。これでわざわざ灣仔の私房菜「渝川菜館」まで行かなくてもいいかもしれない。
しかし、最後にちょっと欲張ってしまった。お腹がはち切れそう。それでも締めには「海天堂」の亀苓膏を忘れずに。
ホテル近くの雑居ビルに入っている、ちょっといかがわしい雰囲気だったフットマッサージ店が小綺麗に改装され、怪しさ激減。しかし60分140ドルと値上がりしていた。
ホテルで預けていた荷物を受け取って、タクシーで機場快線の九龍駅へ。
十二時ごろ空港に到着。
念願の「e道」で出国。登録時には両人差し指の指紋を記録したが、ゲート通過時は片方でOK。とはいえ、時間が時間だけに、殆どならんでいないので普通に出国手続きしても全く問題ないでした。やってみたかっただけです。
関西国際空港へはCX566、ビジネスにアップグレード。往復ともUGでお得な感ありでした。
関空への到着は朝の6時半。無理をすれば定時でも間に合ったけど、家に戻って仮眠をとって午後から出社しました。

今回の食べ歩き写真

【歳時記と落語】中元とお盆とハングリーゴースト~地獄八景~

21日は旧暦の7月15日で、中華圏では中元節です。時期的にも、地獄から解放された死者たちの供養という意味からも日本のお盆とよう似てます。お盆は仏教行事の「盂蘭盆会」と日本古来の先祖崇拝が合わさってできたもので、先祖を供養するというところに力点があります。一方の中元節は、元々道教の年中行事で、三元神の内、地獄を司る地官が霊を贖罪する日とされてます。それと仏教の施餓鬼の習慣が結びついたのが今の中元節で、地獄から戻ってきた「好兄弟(餓鬼のこと)」を慰める儀式です。街角の彼方此方に供え物が飾られます。台湾などでは紙で作った戯劇の舞台が飾られ、彼らを慰めます。

出典:宜蘭県政府全球資訊服務網

また台湾北部の宜蘭県で行なわれる「頭城搶孤」は勇壮なことで知られていますな。広場に「孤柱」と呼ばれる柱が十本立てられ、その上に「孤棚」という棚が設けられます。そこから更に高々と「順風旗」が立てられ、それを取り合います。その高さはおよそ地上15階ほどにもなるんやとか。おまけに「孤柱」には、油が塗られ、若者たちは命綱をつけて競い合うです。えらい危険やというんで、清朝時代に一時禁止され、1991年になって復活したんやそうです。
シンガポールやマレーシアでは、この時期は「ハングリーゴースト」と呼ばれ大々的にお祭りが行なわれます。「好兄弟」を慰めるために「歌台(ゲイタイ)」と呼ばれる本物の舞台が広場に設けられ、派手な衣装に身を包んだ歌手たちが歌を披露します。かつては戯劇が行なわれていたようですが、1970年代から現在の歌謡ショーの形態になったんやそうです。日本でも公開された「881 歌え!パパイヤ」は、この「歌台」で歌うことを生甲斐とする若い二人の女性を描いたコメディーで、サゲがなかなかようできた映画でした。(伏木香織「シンガポールの歌台―イメージの連鎖からたちあがる問題系としての現象―」アジア・アフリカ地域研究12(2),2013年3月
二十四節気の一つ処暑は23日。暑さが和らぐという意味で、秋の気配が強うなってきます。穀物も実り、萩の花も咲き始めます。せやから秋は「おはぎ」、はるは「ぼたもち」なんです。
お盆の落語というのは、まあ怪談噺やなんかはこの時期ようやられますが、今回は地獄ということで「地獄八景亡者戯」を。

サバの残りに当たってで死んだ男が、伊勢屋のご隠居と再会します。
「伊勢屋のご隠居さん、ご機嫌さんで」
「こんな所で会うて、あんまり機嫌良うないわいな」
「お変わりもなく。」
「変わり果ててるやないか。」
そんなやりにくい挨拶をしておりますと、賑やかな一団がやってまいります。もうこの世でやりたいことはやりつくした若旦那、いっぺんあの世でも見に行こうと、なじみの芸者、仲居、たいこもちと一緒に、河豚を食うて死んだんですな。
若旦那一行が三途の川にやってまいりますと、亡者の衣服を剥ぎ取るという「三途河(しょうずか)の婆さん」つまり「脱衣婆」の姿がない。茶店で聞くと、着物を剥ぐような前時代的な風習が廃止になって脱衣婆は失業、閻魔大王に相談に行くうちにお互いに情が移って、婆さんは大王の二号に。そこで大王に都合してもろうて「バー・ババア」を開いたんですが、アルバイトに来ていた赤鬼と浮気をし、それが閻魔にばれて、地獄を追放になった。赤鬼は罰の力仕事で身体を壊し、婆さんは医者代、薬代に困って体を売るが、娑婆から来た亡者に悪い病気をうつされて六道の辻で「のたれ生き」。娑婆で四国八十八箇所をめぐって冥土に戻り、半生記を綴った本がベストセラーになって、今は講演などで活躍中やという。(このくだり、近年では、「冥土カフェ」を開いて大当たり、アキバならぬ焼き場の周りに多数の支店を出すというものあります。「焼き場だけに、燃え~」)
三途の川を鬼の渡しで渡りますと、六道の辻。一番広い通りが「冥土筋」、選ろう賑やかなところです。「グランドキャバレー火の玉」では「幽霊のラインダンス」や「骸骨のストリップ」をやっております。そういうのが苦手な向きには芝居、歌舞伎もお薦めです。なんせ、名優がみな揃うてます。中でも見物は「忠臣蔵」の通し。初代から十一代目までの団十郎そろい踏みで、判官も由良之助も師直もみな団十郎です。
寄席も三遊亭円朝が「牡丹燈篭」の続き噺、初代と二代目春団治の「親子会」、
枝雀、米紫、吉朝、歌ノ助、米朝の米朝一門会、米朝は肩のところに近日来演と書いてある。
念仏町で、罪が軽うなるようにと、銘々懐に合わせて念仏を買いまして閻魔の庁へとやってまいます。
亡者の一団が中へ入りますと、罪状に応じて判決が下ります。医者の山井養仙(やまいようせん)、山伏の螺尾福海(ほらおふくかい)、歯抜き師の松井泉水(まついせんすい)、軽業師の和屋竹の野良一(わやたけののらいち)が残されて、あとの者は極楽へと送られます。
四人はまず、熱湯の釜へ。ところが、山伏が水の印を結びますと、熱湯が日向水になってええ湯加減です。
そこで、針の山へ送りますと、軽業師が三人を体の上乗せて踊りながら上がって行きよる。
人呑鬼に喰わせていまおうとしますが、歯抜き師が歯を抜いてしまいまして、四人は噛み砕かれずに腹の中へ。医者が胃を切って、抜け出しますと、疝気筋という腹痛を起こすというところを四人で引っ張ります。

「痛たたたたッ、何という亡者どもじゃ。便所行って出してしまわな」
しかし、四人は腹の中に居すわって苦しようと踏ん張ります。
「こいつらどうしても出よらんがな。もし大王様、こうなったら、あんたを呑まなしょがない」
「わしを呑んで何とする?」
「大黄飲んで、下してしまうのや」
大黄は瀉下剤として使われた漢方薬です。茎をジャムやパイの具にするルバーブもこの大黄の仲間で、わずかですが瀉下作用のある成分を含んでますので、敏感な人はお腹をくだすことがあるそうです。
この噺は、滅びかけてたんを三代目桂米朝師匠が復活させはったもんで、米朝一門を中心に、今は結構な数の噺家が手がけるようになりました。構成は、閻魔の庁に行き着くまでと、その後との二つに大きく分けられ、前半は時事ネタを取り込んで比較的自由に、後半は型を守って演じられるのが特徴ですな。長い噺なんで、前半で切ることもようありますが、その場合、噺家によってはもう全く別の噺というてもええ程違うことも少のうありません。



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【歳時記と落語】七夕の意外な話

 8月13日は「七夕」です。仙台の「七夕祭り」は、旧暦になるべく近く、且つ毎年同じ日になるようにというんで8月7日にやってます。
この七夕、もともとは中国の乞巧奠というお祭りでした。織女にあやかって、機織りや裁縫の上達を祈ったんですな。当然、織女と牽牛の伝説も中国から伝わったもんです。南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日は牽牛織女の出会う日であり、乞巧奠と書かれていますんで、よっほど昔かこの風習があったことが分かります。また、この中にはかささぎが天の川に橋を架けて二人を会わせるということが記されております。
一方、「たなばた」というのは元々「棚機」と書いて、日本の古い禊ぎ行事でした。女性が着物を織って神棚に供え、神様に豊作を祈ったんですな。
機織の女性という共通の要素があったんで、この三つが結びついて、今の「七夕」の形になったと言うわけです。
牽牛織女というと離れ離れの恋人や夫婦のたとえとしてよう使われます。
戦国武将直江兼続も「織女惜別」という漢詩を詠んでいます。
二星何恨隔年逢  二星 何ぞ恨まん 隔年に逢うを
今夜連床散鬱胸  今夜 連床 欝胸を散ず
私語未終先洒涙  私語 未だ終わらずして 先ず涙を洒ぐ
合歓枕下五更鐘  合歓枕下 五更の鐘
なかなか熱烈な詩ですな。
しかし、こんな風に使われる織女が浮気もんやったとしたらどうします?
「天衣無縫」の出典でもある『霊怪録』所収「郭翰」という話にこんな風にあるんです。
唐の時代、郭翰という青年が、夏に庭に出ていると、天から一人の女性が舞い降りて来た。それは織女だった。やがて毎夜郭翰の元を訪れるようになった。あるとき郭翰が戯れに尋ねた。
「牽牛様はどこにおいでなんですか?なぜこのようなことをなさるのですか」
「男女の間のことは、あの人とは関わりのないこと。天の川に隔てられ知れるはずもありません。知られたとしても心配するにはおよびません」
と答えた。
全く夢のなくなるような話ですな。
さて、「七夕」の落語というと、これはなかなかないんです。そこで今日はちょっと小咄をご紹介いたします。

今は字も画数が少なくなりましたが、昔は難しい字体をつこてました。「体」なんて「體」と書いたんですな。
これを「ハモ」と読んだ人がありました。なるほどハモは骨が豊かな魚には違おませんな。せやけど、あれは魚偏に豊と書くんです。
昔は字を知らん、書けんという人がままおりました。無筆というたんですな。知らんというても全然書けんのやのうて、簡単な字は知ってるんですな。せやから、「ハモ」みたいな間違いもおこる。まあ、ちょっと難しい字ぃ知ってたら「学者やな」てな事を言われたもんです。
「ちょっと教せてもらいたいんやが。《つかさ》ちゅ字が分からんねん」
「わしにそんなこと聞いても分るかいな。魚屋の大将に聞いてみ。あれはなかなか学者やで」
そこで、魚に聞きに行きます。
「魚屋の親っさん。ちょっと《つかさ》っちゅう字を教えて貰いたいんやが」
「つかさ……、あぁ《司》かい。あらお前、同じくっちゅう字を二枚に下ろした骨付きの方や」
まことに魚屋らしい教え方があったもんですな。
さて、ある男が家へ帰ってきますと、友だちが置手紙をしていったというんですな。
「あいつこの頃、手習に行てるらしいな。ちょっと字が書けるようになったら、生意気に置き手紙やなんて、何をすんねやいな。見てみい、これ。ミミズののたくったような字書きやがって。何々、かりたはおりは七(ひち)においた? 借りた羽織は質に置いたやて。何をさらすねん。三日だけいう約束で貸したったんやで。それを黙って質になんか置きやがって、なんちゅうことさらすねん」
言うてると友達がやってきます。
「おうっ、手紙読んでくれたか?」
「お前はえげつない男やなぁ。え、何がて、そやないかい。三日だけて頼むさかいにあの羽織貸したったんや。それを何でわしに黙って質に置いたりすんねん?」
「そないなことするかいな。お前が留守やっちゅうさかい、そこに置いといたんや。ほれ、ちゃあんとそこにあるやろ」
「え? あ、ほんに。あるなぁ。せやけど、借りた羽織は七に置いた、て書いたぁるやないか」
「お前字知らんなぁ。そら、七夕の「たな」という字やがな」

【歳時記と落語】ラマダンと夏の蟹

8月7日が立秋で、ここから暦の上では秋とはいうものの暑い日が続きます。そんなわけで、この日からは時候の挨拶も残暑見舞いになります。梅雨明け宣伝も立秋までに出されることになってまして、えらい長梅雨で立秋を越えてしもうたら梅雨明け宣言は出えへんのやそうです。
翌8日は、ハリ・ラヤ・プアサ(hari raya puasa)、またはイードアルフィトル(Eid Al’Fitr)と呼ばれるイスラム教徒のラマダン明けを祝うお祭りです。今年のラマダン(断食月)は7月9日からでしたから、ちょうど一ヶ月が断食期間やったことになりますな。一ヶ月も断食やなんて死んでまうやないかい、とお思いの方もあるやもわかりまへんが、ラマダンの断食というのは日が昇っている間だけなんですな。夜があけて日が暮れるまでが一日、時計も何にもない自分の感覚ではそうでしょうな。夜は勘定に入ってない。せやからラマダンの期間、イスラム教徒の人は日が暮れてから飲み食いをします。もう日中の間の空腹と我慢を追い払うように食べますんで、普段よりもラマダンの方が却って肥るてな手合いもようけいはるそうです。
ちょうどこのラマダンの時期が旬という、なかなか皮肉な蟹がおります。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
珠江河口の汽水域にある潮溜まりに棲むワタリガニの一種の「黄油蟹」という蟹で、6月下旬から8月半ばにだけ出回ります。潮溜まりという浅いところで、暑い盛りに日光浴でもするのか、蟹ミソが溶けて全身に周り、白い肉が黄色う染まってるのが特徴です。蟹ミソもまことに濃厚で、上海蟹よりもこっちの方がうまいという人も多いですが、いかんせん季節限定で養殖もしてないので数が少ないというので、やや高いのが玉に瑕です。日本でも食えんことはないですが、広東料理のレストランに聞いてみましたところ、日持ちがせんのを空輸せんならんというので、一杯7万円くらいからという値段になるそうです。もちろん、これは蟹だけの値段です。香港ですと、800~1400HKDくらいですな。
落語の方で蟹というと、「叩き蟹」というのがあります。
お江戸日本橋のたもとに、黄金餅という名物を売る餅屋がありました。あるとき、一人の旅人が通りかかりますと、子どもが主から折檻を受けております。聞けば、父親が怪我、母親が病気、腹が減ってつい出来心でくすねようとしたといいます。
「情けをかけちゃあ、ガキのためにならない」
そういう主をなだめて、旅人は、子供に餅をご馳走して土産にも買ってやりますが、金を払う段になって、財布がないことに気がつきます。
餅代百文の担保に、木で蟹を彫っておいて行きます。
腹立ち紛れに、主がキセルで蟹を打ちますと、なんとこれがまるで生きているように横に這い出した。これがたちまち評判になりまして、店は大繁盛。
二年後、旅人がやってきて百文を払って子供の消息を尋ねます。
直ぐに医者を呼んだが、母親は助かったものの父親は亡くなり、これも何かの縁と、この餅屋で働くようになり、一人前に仕事をしてくれているので、今は主も楽が出来ると喜んでいるという。
「かけた情けが回ってきたじゃないか。これが情けは人のためならずってことだよ」
旅人の言葉に主も頷きます。主が名前を聞いても旅人は応えません。
そこへ餅を運んできた子供、昔父親が言っていてことを思い出します。フラッと現れてはいい仕事をして去っていく職人の名前を。
そう、実はこの旅人、飛騨の匠・左甚五郎です。
「切り餅も名物だよ。食べておくれ」
甚五郎が一切れ取ろうとしますが、繋がっております。
「おやおや。まだ修業が足りないねぇ」
「すいません。庖丁を持ってまいります」
これを聞いた蟹、つつと這いよって、はさみを差し上げ、
「使ってくださいな」

蟹の噺というのは、他には「庭蟹」という噺もありますが、いずれも江戸落語です。上方では「抜け雀」を改作した桂文太の「抜け蟹」があるくらいですな。
この「叩き蟹」は江戸落語では一つのジャンルになっている左甚五郎物の一つです。「竹の水仙」「ねずみ」と基本的な流れは同じです。

これは木彫りやのうてからくりですが。

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