月別アーカイブ: 9月 2013

【歳時記と落語】彼岸と天王寺さん

9月23日は秋分の日です。これを中日にした七日間が秋の彼岸ですな。秋の彼岸というと付きものが「おはぎ」ですな。「ぼたもち」と「おはぎ」の違いは春の彼岸のところでふれてますんで、ここでは割愛します。
もう一つ、この時期になりますというと、あちらこちらの道ばたを赤く彩りますのんが「曼珠沙華」、別名「彼岸花」です。血の色のような真っ赤な花が印象的ですが、ようく見ると、枝分かれもなければ葉っぱもない、奇妙な格好をしておりますな。実は葉っぱは花が終わったあとで生えてきます。しかし、実はないないづくしにもう一つ無いモンがあります。それは種です。彼岸花は球根でしか増えることができません。ほならどうやって日本中に広まったのか。球根が何かに紛れていったというのもあるでしょうが、殆どは人間が持っていって植えたもんです。つまり、日本中の彼岸花は一株から増えたもんで遺伝的には全部同一なんですな。これは種子では増えず接ぎ木などでしか増やせない桜のソメイヨシノも同じことです。
なんで彼岸花が各地で植えられたのか。手向けとして墓などに植えられたという話もありますが、全体に毒があることから、土手や畝に植えて穴を開ける小動物よけにしたという説が有力やそうです。
また球根の毒の成分は水に溶けるんで、粉にしてよう水洗いすれば毒が抜ける。それを、救荒食にしたこともあるそうです。しかし、まかりまちがうと死んでしまう程の毒をもっとりますんで、まあお試しにならんほうがええやろうと思います。
彼岸の噺といいますと、「天王寺参り」がございます。
愛犬を死なせてしまった喜六が甚兵衛に誘われて、犬の供養に四天王寺さんへお参りにまいります。境内は露店が店を並べてやかましい言うて客を呼んでおります。

ほぉ~ら、握りたて、うまいのん握りたて、どぉじゃい。江戸寿司じゃいな、早や寿司じゃいな。

本家ぇは竹独楽屋でござい。本家ぇは竹独楽屋でござい。

亀山のチョ~ン兵衛はん。亀山のチョ~ン兵衛はん。

二人は境内をあちこち廻って、引導鐘のところへやってまいります。
「あのう、これひとつ、よろしゅうお頼の申します」
「はいはい。なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ。今日引導鐘の功力(くりき)を以って、三月十五日の諸霊俗名……クロ? これはご婦人ですか?」
いえ、それね、オンでんねやわ」
さて、坊さんが犬の引導鐘をつきますと、その音が何やと犬の唸り声にも聞こえてきた。
「坊さん。引導鐘は三遍までと聞いてんねん。三遍目、わたいに突かせておくんはなれ。」
「ああ撞いてあげなされ、功徳になりますで」
「えらい済んまへん、おおきに。クロ、ええ声で頼むで。ひのふのみっつ」
すると鐘がクワァン。
「ああ、無礙性(むげしょう=乱暴)にはどつけんもんや」
途中、境内を廻るところが実に細かく、ちゃんと観光案内になっております。落語は丁稚の耳学問と言いますが、笑いだけやのうて実用的な面もあったんですな。

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【歳時記と落語】中秋の名月と星の都

9月16日は敬老の日でした。元々は9月15日でしたが、2001年の法改正いわゆる「るハッピーマンデー制度」で翌年から9月第3月曜日となりました。兵庫県多可郡野間谷村が1947年に提唱した「としよりの日」が元になったんですが、なんで9月15日かというと、実は確かな根拠がないんです。提唱した人は「ハッピーマンデー制度」に反対やったそうですが、そもそも日付の根拠が薄かったんやさかいに、これでもええんやないでしょうかね。
その後の19日が、旧暦の8月15日ですんで、「中秋節」ということになります。いわゆる「お月見」ですな。ススキを飾って月見団子を備える。と言いますが、天保の人・喜田川守貞が記した『守貞謾稿』には、京大阪ではススキは飾らんかったらしいんですな。それに月見団子も江戸はまん丸ですが、京大阪は俵型でこれに小豆餡を衣につけます。この辺は今も割合に残ってる風習の違いですな。
どうもこの京阪風の月見団子は里芋を模したもんやったらしい。今でも里芋を供えるという古い風習が残ってるところもあって、十五夜の月を「芋名月」てな呼び方もすることがあります。月見は収穫を祝う行事でもあったんです。
また宮中では、芋と茄子を盛って天皇にお出しし、天皇は茄子を箸で三度突き刺して、その穴から月を覗いて願い事をしたとも言います。江戸時代には割りと一般的にこれに倣ったことがされておったようです。
アジア圏でも同様に月見行事が行なわれるわけですが、中華圏ではなんと言うても「月餅」が付き物ですな。中国では高価な月餅が賄賂代わり贈られるんで、それを禁止するようになったという話も聞きます。
「山吹色の菓子でございます」
「お主も悪よのう」
というのが、あちらでは、今でもホンマにあるんやさかい大したもんですな。
また、ランタン・フェスティバルも彼方此方で催されます。ランタンとは言うてもただの燈籠やなしに、人形やとか建物やとか相当大きなもんが作られて街角や公園を大いに賑やかします。
まあ、大概「月」が中心の行事ですんで静かなもんなんですが、異彩を放っておりますのが、香港の大杭で行なわれます「舞火龍」です。19世紀の終わりごろ、大杭は台風と疫病に襲われて大きな打撃を受けました。その時にある占い師が、「中秋節に三日三晩、火の舞を続ければ災いが去る」と言うたんやそうです。村人は縋る様な思いで藁で大きな龍を作り、無数の線香で表面を覆い、火を付け、そして太鼓と爆竹を打ち鳴らし、踊り続けたところ、疫病がおさまったんやとか。それが今でも続いているんです。
黎明と任賢齊主演の香港映画『火龍』でも象徴的に使われてました。

さて、月の落語というと、「月宮殿星の都」でしょうな。
ここにおりました我々同様という男、友達に「一杯飲ましたろ」と誘われますが、ええ話というのは裏があるもんで。この友達が知り合いからウナギを5匹ももろうたんで、それを料理してほしいというんですな。
一杯飲むためやと、ウナギをつかみにかかりますが、ぬるぬると滑ってなかなか上手いこといかん。仕舞いに、上へ上へと逃げるウナギを逃すまいとしているうちに自分もどんどん上へ上へ。屋根まで上がってしまいよった。
すると、向こうの方で竜巻の小さいのがギリギリィ~ッと巻いて来たかと思いますと、今まで一尺ぐらいやったウナギが胴回り三尺ぐらいになりまして、男を尾っぽで巻いたかと思うと、中天へさしてズーッ。
それもそのはず、このウナギ、海に千年、川に千年、池に千年、三千年の劫経たて、中天へ昇天しょうという機会をねろうておったんですな。こんな男の手にかかるようなもんやありません。
ウナギは、一緒に連れて行くのは邪魔臭いとでも思うたのか、男を途中で雲の上へ放り出して、そのまま天へ昇って行きます。
そこに下りましたのが雷の五郎蔵。先年、雲の切れ目から落ちたところをこの男と嫁はんに助けてもろうたというやつです。その雷の五郎蔵に案内されて、月宮殿へ。五郎蔵が奥へことわりを言いに行っている間に、この男、御簾の奥にあるつづらを開けよった。
中に入ってたんは「ヘソ」です。なんでも雷というもんは二十歳になったら、このヘソを一つもらう。そうすると神通力が付いて空が飛べるようになるんやそうで。
すると、この男、ヘソを一つ取ると口の中へ。これがなかなか美味い。もう一つ食らうてから、嫁さんの土産にしようとつづらを背負うて表へでます。
ヘソを喰うたんで宙に浮いてスーといくんですが、役人に見つかって追いかけられます。そして雲の切れ目から足踏み外して下へドスーン。落ちたところが自分の家です。ちょうど嫁はんが洗濯しております。
びっくりした嫁はん、亭主とは知らずに手にした杓で打ち付けます。
「痛い痛い。無茶をしなっちゅうねん」
「まぁッ、あんたやないかいな、どこ行てなはったん?」
「ウナギに連れられて、中天まで行てたんやがな。お前のためにと、重たいつづら背たろうて来たのに。それをお前、杓でどつくてな。どういうこっちゃ」
「ヘソの仇は長い杓で討ったんや」

【歳時記と落語】電話の散財

9月の二週目は、これといったもんがないんで、9月11日の「公衆電話の日」に因んで、電話の話でもしようかと思います。
しかし、「電信電話記念日」は10月23日、1869年に初めて電信が引かれた日を、「電話創業の日」は12月16日で、1890年に東京横浜間で事業が開始された日をそれぞれ記念日としております。
初めのころは、電信電話の仕組みは庶民にはようわからなんだ。手紙を遠くまで送ってくれるというんで、電信の線に手紙ぶら下げた人もあったんやそうですな。
「公衆電話の日」というのは、1900年に東京の新橋と上野駅前に始めて公衆電話が設置されたのを記念したもんです。もっとも、当時は「自動電話」と呼ばれとったそうです。この頃の電話というのは、交換手を呼びだして、自分の電話番号と相手の電話番号を伝えて繋いで貰うというもんで、この「自動電話」も自動とは言うても、交換手に相手の電話番号を言うてからお金を入れて繋いでもらうもんやったんですな。交換手のいらんダイヤル式の電話が登場するのは1925年、その頃から「公衆電話」という言葉が出てきたんやそうで。
当時の電話というのは、ちょいちょい混線したんやそうですな。いまどきはそんなことはまぁありせんが、一昔前までは偶にあったもんです。大正の頃は、そんな混線を解くまじないがあったんやそうです。「話し中」と叫んだらええというんですな。
なんでそんなんで直るかというと、これにはからくりがあって、当時の電話というのは交換手には聞こえてたらしいんですな。それで「話し中」と叫んだら、交換手が混線に気がついて直してくれたんやそうです。プライバシーやら個人情報やら通信の秘密やら喧しい今の世の中からしたら、考えられへんぐらいにのんびりした話ですな。
その時分の創作落語に「電話の散財」というのがあります。二代目桂文之助の作とも、その師匠・二世曽呂利新左衛門の作とも言われますが、今に伝わるのは二代目林家染丸の型で、林家染丸一門以外ではまずやらん噺です。
さて、昔から大店の悩みの種はといいますと、若旦那の道楽と相場が決まっておりますが、大阪にございます、さるお店は全く逆でございまして、若旦那の方が、親旦那の道楽に手を焼いている次第でございます。
しかもこの若旦那、選挙に出てなさるんですな。そんなわけで、事務所から呼び出しの電話が掛かってまいります。しかし、親旦那一人にするとまた遊びに出かけるやも知れん。それはこの時期どうにも体裁が悪い。そこで若旦那、「十日でも二十日でも、行きやせん」と親旦那に約束させた上に、番頭にきつう言いつけて事務所へ向かいます。
ところが、若旦那の姿が見えんようになった途端に、親旦那は「羽織を出しとくれ」ときたもんです。ミナミへ繰り出そうというんですな。
番頭はここで親旦那に出て行かれたんでは、後で若旦那に合わせる顔がない。そこで一計を巡らせます。
「旦さん、ミナミへ電話を掛けて、電話室の中で、唄を唄うてもろうて、それを、こっちで聞くというのはどうです」
「それでは、顔が見えんがな」
「お写真が見たらよろしいやないかいな。わたいが、お酌いたします」
こらちょっと、よそにはない、こらおもろいと親旦那も乗り気です。
先方へ電話をいたしますと、今お風呂へ行ったはるというので、折り返し電話をしてもらいます。お店の番号が「西の五千九百十番」、「じじ ごくどう」ですな。
酒肴を取り揃えて待っておりますと、先方から電話。電話室で三味線弾いて唄を唄わせて、おまけに、いつもの通り芸妓やら太鼓持ちも呼んでもらいます。

♪梅にも春の 色添えて 若水汲みか 車井戸
音もせわしき 鳥追いや 朝日にしげき 人影を
若しやと思う 恋の欲……♪

「梅にも春」ですな。陽気にやっておりますと途中で、
「昨日お見せになりました見本の口、どぉなりましたんや?」
混線ですな。こういう場合は「話し中」というと直してくれたんです。
そこで親旦那が「話し中」と言いますと、元の「梅にも春」に戻ります。しばらくするとまた混線。
「話し中」
いよいよ賑やかにいこうというんですが、どうも電話の向こうは元気がない。飲み食いなしの空散財やったんですな。食べるもんやら酒やら用意させまして、今度は賑やかに「磯節」です

♪磯で名所は 大洗様よ
松が見えます ほのぼのと
見えます ほのぼのと……♪

「アァ~、テヤテヤテヤテヤ、イササカリンリン、スカレチャドン
ドン、ハァ~、サイショネ……」
電話室の中で、赤うなってやっております親旦那、傍から見たら茹蛸の裸踊り同様というやつ。
そこへ忘れ物でもあったのか、若旦那が戻ってまいります。見ると親旦那は電話をしているようやが、どうも様子が普通やない。
「お父さん!」
「あ、コラコラ」
「おかしな具合やで。お父さん! わたしが分かりまへんか? もぉ~し、
お父さん! もぉ~し!」
「えぇ、何やまたか。話し中ッ!」

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【歳時記と落語】目黒の秋刀魚と昭和天皇

9月7日は白露になっております。これからの時期は夜は冷え込むようになってきます。すると草花に朝露が宿る、そういう様子から「白露」という名前が出来たんでしょうな。朝夕は肌寒さを感じる頃合ですが、日中はまだまだ暑さが残ります。
食欲の秋てなことを申しますが、確かに何かと食べ物がおいしい季節を迎えます。その中でも、庶民の味覚の代表といいますと、やっぱり秋刀魚をおいて他にはないでしょうな。
もっとも、秋刀魚は北から下ってきますんで、銚子あたりで旬を迎えるのは10月から11月、和歌山あたりでは12月くらいです。この頃になりますと、だいぶ脂も抜けてあっさりした味になってくる。そこで和歌山では秋刀魚の棒寿司やなれずしが作られております。
秋刀魚の落語というと、これはもう「目黒の秋刀魚」をおいて他にはありませんな。
さる殿様が目黒へ鷹狩に出たんですが、供が弁当を忘れた。するとどこからか旨そうな匂いが漂ってきたんですな。それが秋刀魚を焼く匂い。空腹でたまらんお殿様は食べたいと仰せられた。びっくりしたのは家来です。当時、秋刀魚は下魚とされておりましたんで、共侍はともかくお殿様の食べなさるもんやなかったんですな。
とはいえ、お殿様の仰せとあって仕方がない。近所の百姓のところから焼いた秋刀魚を御膳へ。生まれてはじめて、しかも空腹ということとも合わさって、このお殿様、秋刀魚がえろうお気に召しました。
しかし、秋刀魚なんぞがお殿様の食事には出てこないんです。
ところが、親族の集まる機会があって、望みのもの聞かれたお殿様はここぞと秋刀魚を所望します。 しかし、調理方は秋刀魚の脂に当たってはいけない、骨が喉に刺さってはいけないと手間の上にも手間をかけて料理いたします。 そんな秋刀魚がうまかろうはずがありません。 そこでお殿様、
「いずれで求めたさんまだ?」
「日本橋魚河岸で求めてまいりました」
「それはいかん。秋刀魚は目黒に限る」
 さんまが上がるはずもない目黒を秋刀魚の名所と勘違いというのが面白みの一つであるわけですな。
秋刀魚が下魚でやんごとなき方のお口には入らなんだというのは、何も江戸の話だけやありません。明治になっても皇室の方々は青背の魚は召しあがらなんですな。
ただ、昭和天皇は秋刀魚が大好物で、病床につかれたときに医師から食べたいものを聞かれて、「サンマかイワシのようなもの」とお答えになったんやそうです。
実は皇族で始めて秋刀魚を召し上がったのが昭和天皇なんです。
草柳大蔵氏の『昭和天皇と秋刀魚』にそのエピソードが書かれております。  
昭和天皇がまだ迪宮殿下といわれ、弟宮・淳宮殿下(後の秩父宮殿下)と皇孫御所におられた時分、明治38年ごろの話です。
 当時、御養育係担当の女官やった足立孝子というお方、府立第二高等女学校師範科(保育専攻)を卒業後、東京高等師範学校附属幼稚園にも奉職されたという経歴の持ち主。白身魚ばかりの食事が育ち盛りの宮様方にはよろしくないと、「あきがたな」という魚と言って、秋刀魚をお出ししたというんです。
両殿下とも初めての秋刀魚がいたくお気に召したようで、翌年淳宮殿下は参内の折、食事の希望を聞かれて「あきがたな」とお答えになった。
何の事か分からないので、皇孫御所に問い合わせがあり、慣例を破ったことが分かってしまったんです。
しかし、東宮妃殿下(後の貞明皇后)はその配慮に感激なされ、足立女官は却って大変なお褒めの言葉を賜ったんやそうです。
ところで、秋刀魚の水揚げの一位がどこがご存知でしょうか。北海道の根室なんです。目黒ならぬ根室の秋刀魚というわけですな。

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