カテゴリー別アーカイブ: 落語

【ニュースと落語】刺されると死ぬ恐れもある猛毒の貝が徳島沖で発見!

タガヤサンミナシガイ(出典:wikipedia)

今回、徳島県海部郡牟岐町沖で見つかったのは、イモガイ科の「タガヤサンミナシガイ」。イモガイ科の貝はいずれも毒を持っており、最も猛毒の「アンボイナガイ」では、毒の半数致死量は0.012mg/kgで、インドコブラ(0.45mg/kg)の約37倍、世界最強の毒ヘビ・インランドタイパン(0.025mg/kg)の約2倍です。「タガヤサンミナシガイ」もそこまでではありませんが、猛毒を持っています。
先日は、高知県東洋町沖で「アンボイナガイ」が見つかっていますが、日本にはイモガイの仲間は100種以上が主に紀伊半島以南に生息しているそうなので、種類全体では、わりと普通にいるようです。

アンボイナガイ(出典:wikipedia)

イモガイの仲間は、里芋に似た形の非常に美しい模様の貝を持っています。そのために捕ろうとしたダイバーが刺されて死亡する事故もあるようなのですが、このどう区切って読んでいいのか分かりにくい「タガヤサンミナシガイ」も美しい貝です。漢字で書くと「鉄刀木身無貝」ですので、「タガヤサン・ミナシ・ガイ」となります。
鉄刀木は、マメ科の高木で、材は黒色で、柾目にすると非常に美しい模様が現れます。非常に堅くて重いのが特徴です。鉄刀木という字も、鉄の刀のように重くて堅いというところからきています。家具やステッキなどの材料として使われています。実は落語の中にも登場しています。

「わたい、松屋町の加賀屋佐吉方から参じましたんやが、先度、仲買の弥一が取り次ぎました道具七品のうち、祐乗・光乗・宗乗三作の三所物、ならびに備前長船の則光、横谷宗珉四分一拵え小柄付きの脇差。あら、柄前が鉄刀木やとの仰せにございましたが、埋もれ木やそぉにございまして木が違ぉておりますので、この旨ちょっとお断りを申しあげます。ならびに、黄檗山金明竹、寸胴切りの花活け、のんこの茶碗。古池や蛙飛び込む水の音、と申します。これは風羅坊正筆の掛け物でございまして。沢庵禅師の一行物には隠元・木庵・即非、張り交ぜの小屏風。こら、うちの旦那の檀那寺が兵庫にございましてな、この兵庫の坊主のえらい好みまする屏風じゃによって、表具へやって兵庫の坊主の屏風にいたしました。と、かよぉお伝えを願います。」

と、「金明竹」に、刀の柄の材料として出ています。この猛烈な早口の言い立てですが、嘘やでたらめはまったくありません。「落語は丁稚の耳学問」とはよういうたもんです。

金明竹
金明竹

posted with amazlet at 13.10.16
スロウボールレコーズ (2013-04-24)
柳家喬太郎 名演集2 金明竹/錦木検校
柳家喬太郎
ポニーキャニオン (2008-05-21)
売り上げランキング: 76,478

【歳時記と落語】聖地巡礼

10月14日は「体育の日」でしたが、これは所謂「ハッピー・マンデー制度」による祝日の移動のおかげです。法律には「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」てな大層な趣旨が書かれていますが、要するに、1964年10月10日に開会した「東京オリンピック」を記念したもんです。
翌15日は、イスラム教の祝日「ハリラヤ・ハジ」です。この日は羊や山羊などの家畜を神への生贄として捧げることも行われますのんで、「犠牲祭」とも言われます。なんでそんなことをするのかといいますと、よっぽど昔の話ですが、預言者イブラヒームというお方が、息子・イスハークを生贄にしなければならない夢を見たんですな。イブラヒームは悩んだ挙句、その夢のお告げに従うこと、つまり息子を殺すことを決意します。イブラヒームがイスハークを殺そうとした瞬間、神がイブラヒームに羊を与え、イスハークの代わりの生贄をするように命じられたというんですな。
 なんやどっかで聞いた話やとお思いの方もあるやも知れませんな。キリスト教のアブラハムとイサクの話そのまんまなんですな。それもそのはず、ご存知の方も多いかも分かりませんが、イスラム教とキリスト教、それからユダヤ教は、いずれも同じ神を崇め、その神との契約に基づく信仰なんです。ですから、所謂「旧約聖書」は、それぞれ重みが違うとはいえ、この三つの宗教に共通の経典となっているんです。
 しかし、「ハリラヤ・ハジ」は文字通りには、「巡礼者の祝日」ということで、日本語で言いますと、「聖地巡礼祭」ということになります。イスラム教徒は、一生に一度は聖地に巡礼するという決まりがありまして、巡礼の付きも決まっております。「ハリラヤ・ハジ」はその最終日を祝う日なんですな。
 「聖地巡礼」というと、最近はやや意味合いの違ったサブカルチャー的な意味合いの方が有名になった感もありますが、昔から日本人は「聖地」をめぐってきました。イスラム教徒は異なりますが「巡礼」というのは行われたきました。日本の場合、それは「願掛け」というような側面が強いようにも思われますな。
 落語にも「巡礼」は登場します。
 さる大家の若旦那、歌舞伎が好きで、月に三日は休むというような役者よりも余計に小屋に出入りするようなありさまです。あるとき、珍しく若旦那が帳場へ坐って店番をしておりますと、そこへ巡礼の親子連れがやってまいりました。
すると、若旦那、
「見れば見るほど可愛らしい巡礼の子。して、国は?」
子供は正直なもんです。
「大和の郡山」
「なに、大和の郡山? そんな筈はない。阿波の鳴門じゃろう」
「いえ、大和の郡山」
「まだ言うか!」
若旦那、ゴンと子供を殴ります。子どもは泣く、親は怒る、当たり前ですな。親旦那が慌てて奥から出てきまして、何ぼか包んで謝りまして事なきを得ます。
 これ、若旦那は『傾城阿波の鳴門』の生き別れの母子の再開の場面のつもりなんですな。お弓の元に偶然尋ねてきた巡礼の女の子、これが実は生き別れの娘・お鶴。当然お鶴はお弓が母親とは知りません。そこの有名なセリフが「とと様の名は、阿波の十郎兵衛」。それで、芝居のつもりになっている若旦那は、芝居っ気なく応えられたんで怒ったんですな。
 このあとも、若旦那は芝居がかりで親旦那を怒らせてはヒト騒動起します。お馴染みの「七段目」です。
 しかし、実は「七段目」でも桂米團治などが演じる江戸型の《素噺系》ではこのくだりはありません。故・桂吉朝の系統がやっている、三味線や鳴り物がふんだんに入る上方の型である《音曲系》にしかありません。

【歳時記と落語】重陽の菊と酒。一人で飲む酒は・・・

10月8日は寒露、寒さが露を凍らせようとするという意味で、いよいよ涼しさから寒さへと変わっていく頃です。この頃になりますと、菊が咲き始めます。
大阪では、2005年まで枚方市にある「ひらかたパーク」で、「大菊人形」が開催されていました。1910年に「香里遊園地」(今の寝屋川市)で開かれたのが第1回という歴史ある行事でした。もう、大阪の秋というたら菊人形というくらい、馴染みのある行事でしたな。
第3回からしばらく枚方市で開かれたものの、金銭トラブルから1919年からは宇治の菊人形館へ、しかし1922年に菊人形館が焼失してしまいました。そこで翌年、いままで南海電鉄の後援で行われていた堺・大浜の菊人形が、枚方に移設を願い出て開催され、1924年には、その他の施設も整備されました。これが今の「ひらかたパーク」の直接の前身になります。つまり、菊人形こそ「ひらかたパーク」の起源やったんですな。
「大菊人形」は幕を下ろしてしまいましたが、菊人形自体がのうなったわけやありません。市民の手で今も菊人形は行われています。菊人形は百年かけて、まさに、枚方のもんになったわけですな。
菊と言いますと、10月13日は旧暦の9月9日で重陽、菊の節句です。陰陽思想では奇数が「陽」、中でも「九」は「究」であり「陽」の極まったものとされました。それで9月9日は「重陽」なんですな。他の節句も皆、この「陽」の数が重なる日になってますが、どういう訳か、この重陽だけは段々廃れてしもうた。
ずーと、遡って行事を見てみますと、平安時代には、「菊合わせ」というて、菊を愛でつつ歌を詠みおうて長寿を祈ったんやそうです。菊の花を酒に漬け込んだ「菊花酒」や、盃に菊の花びらを浮かべたもんを飲んだり、そんな風習は江戸の頃まではあったとか言います。
勿論、この風習は中国から伝わったもんで、あちらで「菊花酒」というと、菊の花を、葉や茎ごとモチキビとともに醸造して一年かけて作るんやそうです。
菊は、晩秋に寒さや霜に負けずに咲くところから「不老草」と呼ばれ、長寿をもたらすとされたんですな。菊の花を眺め、「菊花酒」を飲むというのも、菊にあやかって長寿を得ようという一種のまじないやったんです。
中国で菊を好んだ詩人というと陶淵明が有名ですが、重陽は唐代には非常に重要な節句とされていたので、唐の人も多く詩を残しております。

蜀中九日  王勃
九月九日望郷臺
他席他郷送客杯
人情已厭南中苦
鴻雁那從北地來

蜀中九日
九月九日、望郷臺
他席他郷 客を送るの杯
人情 已に厭う 南中の苦
鴻雁 那ぞ北地より來たる

九月九日憶山東兄弟  王維
獨在異郷爲異客
毎逢佳節倍思親
遙知兄弟登高處
遍插茱萸少一人

九月九日、山東の兄弟を憶ふ
独り異郷にありて 異客と為り
佳節に逢ふ毎に 倍(ます)ます親を思ふ
遥かに知る 兄弟 高きに登る処
遍く茱萸を挿して 一人を少(か)くを

秋登蘭山寄張五  孟浩然
北山白雲裏
隱者自怡悅
相望試登高
心飛逐鳥滅
愁因薄暮起
興是清秋發
時見歸村人
沙行渡頭歇
天邊樹若薺
江畔舟如月
何當載酒來
共醉重陽節

秋、蘭山に登り張五に寄せる
北山 白雲の裏
隠者 自ら恰悦す。
相望み 試みに登高すれば
心は飛び 鳥の滅するを逐ふ。
愁因は薄暮に起こり
興は是れ清秋に發す。
時に見る 歸村の人
平沙 渡頭に歇む。
天邊 樹は薺のごとく
江畔 舟は月のごとし。
何か当に酒を載せて來り
共に重陽の節に酔ふべし。

どうも、高台に登って酒を飲んだらしい。やや望郷の思いなんかが重なってくるようですな。
しかし、やっぱり酒というのは一人で飲むより、友達と飲んだ方が気分が宜しい。
さて、ある男が宿替えを致しまして、その町内に住む友達が尋ねてきますと、一席の始まりです。
友達が尋ねてきたところ、男は一人で壁紙を貼っております。見かねた友達が、
「なんぞ手伝うことないか」
「何もあらへん、これが終わったら、一杯やろう、坐っててくらたらええねん」
「座布団は?」
「そのへんの包みやったと思うけどな」
友達は座布団を出してやります。
「もう、ほんまに、一服しててや。――いうても火ぃがないねん。火ぃだけおこしといてもらおか」
まあ、自分がタバコを吸うのやさかいね、それくらいならと友達は火を起こしてやります。ついでに薬缶を探し出しまして、火鉢の上へ置いてやろうといたしますが、水壷の水が汚れてるんで、それも入れ替えてやります。
「あのなぁ、湯が沸くまで、うどん屋でうどん言ぅて来てくれる
か。東京の方は引越し蕎麦とか言うやろ。蕎麦好きゃないよってに、鍋焼きうどんにしよ。これで一杯呑めて腹も大きなるやないか」
友達がうどん屋に注文に行って戻ってきますと、ちょうど壁紙も貼り終わっております。
「知り合いから上酒をもろてな、今日は上燗で呑んでもらお。わしがちょっと見
てみよ、……少しまだぬるいかな? ぬるいかも分からんねぇ、……惜しいな。あ、水屋ん中にスグキがはいったあんねん。ちょっと持ってきてんか。あ、おおけはばかりさん。もうねんぼなと食べてや。どないや、少し熱くなったかな?……あぁどんならんなぁ、ちょっと熱いかなぁ。……ちょっと熱いなぁ……。こらいかん、やっぱり上燗で呑んでもらわないかん。……あれ、もうあらへん。大して入らんもんやねぇ。チャポンとしたらすぐ出来る、すぐ出来る」
酒が回って、段々友達の悪口になっていく。
「ハハハハ、お前、子どものとき鬼ごとしたん覚えてるか。お前、みんな帰ってしもうてんのに、ずっと一人で隠れとったなぁ。ぶっ細ぇ工なやっちゃ。
……ちょ、ちょ、待ち待ち。何すんねんな。そっち持って行くなちゅうねん。お前かて呑んだかてかめへんで、せやけど替わりばんこにいかな。ハハハハハッ、嬉しぃねぇ? 何ちゅう顔してんのん? えらい恐い顔してるやん。何か気に入らないことがあるの? そこがお前、気が利かんちゅうねん。機嫌悪いの? 気に入らんことあんねんやったら、何もこんなとこへ居ててもらわんでもえぇねん。去ねいねドアホ!」
「いないでかっ! もぉ二度と来ぇへんわい!」
友達は怒って帰ってしもうた。そらそうですはな、結局男一人でのんどったんやさかい。
「え、お待っとさんで」
「何や、うどん屋か」
「へ。けど、今のお方あれ、うどんの注文に来てくれはったお方と違いまん
のんか? えらい恐い顔して出はりましたで」
「放っとけほっとけ、酒癖の悪い男じゃ」

桂 枝雀 落語大全 第二十九集 [DVD]
EMI MUSIC JAPAN (2003-05-28)
売り上げランキング: 66,233

【歳時記と落語】豆腐の日

10月2日は、語呂あわせで「豆腐の日」やそうです。夏は冷奴、冬は湯豆腐、まあ豆腐自体には特に季節というようなもんはありませんので、語呂あわせでも何でもええんでしょう。
豆腐というのは、中国から伝わったもんです。発明したのは前漢の淮南王・劉安という説がありますが、これは16世紀の『本草網目』に「豆腐之法,始於淮南王劉」とある記述を根拠としておるんですが、実際にはもっと後になってできたもんのようです。
日本に伝わった時期もはっきりしまへんが、少なくとも12世紀の末頃には、文献に「豆腐」の文字がみえることから、平安時代には入ってきていたらしい。しかしながら、豆腐が庶民の食べ物として浸透するのはなんというても江戸時代です。
 江戸時代というのは庶民が食を楽しむようになった時代です。『料理物語』など、数多くの料理書も出版されるようになりました。中でも、素材にこだわった料理書に《百珍物》と呼ばれるもんがあります。卵やったら卵料理ばっかり百種類載せてるんですな。その先駆けになったんが、天明2年(1782年)に刊行された『豆腐百珍』です。これはえらい評判やったらしく、続けて『豆腐百珍続編』『豆腐百珍余録』が出版されてます。
 豆腐の噺というと、「ちりとてちん(酢豆腐)」「田楽食い(ん廻し)」がありますが、これは前に紹介したんで、「甲府い」を。

ある豆腐屋の主人が、店に出てみると、店の者が若い男を殴りつけている。おからを盗んで食べたのだという。そのままで食うようなものでもないおからを盗んだというと、よほどの事情でもあるのだろうと、聞いてみますと、この男、名は善吉と言いまして、甲府の在の者。早くに両親を亡くして伯父夫婦に育ててもらいましたが、一廉のものになって恩返しがしたいと、身延山で願掛けをいたしまして、江戸へ出てまいりました。ところが、浅草寺で財布をすられて無一文になり、つい出来心で、おからを盗んでしまったのだという。
事情を聞いた店の主、境遇に同情し、また同じ法華宗、また店の若い衆が辞めないと行けないということもあって、住み込みで働かせてやることにいたします。
仕事はといいますと、豆腐の行商でございます。
まずは、売り立ての声を教えます。
「豆腐ぃ、ゴマ入り、がんもどき」
 それから三年間、陰日向なくまじめに働きます。愛想もいいし、声もいいというので、お客さんの評判も上々です。
 仕事ぶりに主も喜び、一人娘も年頃とあって、祝言をあげさせます。
 それから夫婦で仕事に励みまして、店はますます繁盛いたしまして、やがて年寄り夫婦は悠々隠居の身の上となります。
 そんな、ある日善吉は、伯父伯母への報告と身延山へのお礼参りを兼ねて、女房をつれて甲府へ里帰りすることにいたします。
 その様子を見た近所のもんが
 「どこまで行くんだい?」
と、聞きますと、善吉が、
「甲府ぃ。お参り、がんほどき」

ビクター落語 七代目 春風亭小柳枝 甲府い、他
春風亭小柳枝(七代目)
日本伝統文化振興財団 (2008-12-17)
売り上げランキング: 423,688
志ん朝復活-色は匂へと散りぬるを ぬ「高田馬場」「甲府い」
古今亭志ん朝
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル (2002-09-19)
売り上げランキング: 115,807

【歳時記と落語】秋といえば芋ですな

10月1日は中国では国慶節。言うてみたら建国記念日ですな。これでなんと一週間丸まる休みです。実に思い切ったことをしますな。制度の違う香港では当日だけが休みやそうです。
それに対して、日本では秋も深まったなぁ、というくらいで、暦では特に節気も何もあらしまへん。まあ、今年は10月5日が旧暦の9月1日、暦の上ではそろそろ晩秋ということになりまっさかいに、一つの節目とは言えんこともないですが。
中秋のときに、「芋名月」という話をいたしましたが、秋というと芋の季節でもありますな。特に関東以北では里芋の収穫が大体このくらいの時期から始まりますんで、所謂「芋煮会」が行なわれ始めます。山形の「日本一の芋煮会フェスティバル」は9月の第1日曜なんでもう終わってますが。
芋煮は大きく醤油味と味噌味の二つがあり、肉も豚か牛かという違いがあるらしい。どうもそれぞれがお互いに他の味付けが受け入れられへんようですな。まあ、雑煮が「すまし」か「白味噌」か、「切り餅」か「丸餅」か、という論争のようなもんです。京阪神は「白味噌」で「丸餅」ですな。
芋というと、サツマイモも里芋同様9月から11月が収穫期です。しかし、収穫後しばらく置いたほうが甘みが増すので、どうしても印象としては晩秋から初冬というイメージですな。
日本でサツマイモが栽培されるようになったんは17世紀の初め頃、青木昆陽が普及に努めたことは、よう知られておりますな。昔は砂糖なんぞは庶民の口にはなかなか入らなんだ。せやからサツマイモの甘さというのは、今我々が思うよりも、えらいもんやった。「甘藷」というのもそういうことがあってのことでしょうな。またサツマイモのことは「十三里」とも言うた。「栗より(九里四里)美味い」の洒落です。
今回は、これらの芋にちなんで、「芋俵」という噺を紹介しましょう。歴代の小さんの得意です。
ここにおりました泥棒三人、さる大店に盗みに入るために一計を案じます。
仲間のうちの一人を芋俵へ入れ、それを店の前へ持っていって、しばらく預かってくれと置いてくる。そのまま日がくれてしまえば、信用ある大店のこと、俵を中へ入れるに違いない。そこで、店が寝静まった頃に、俵の中から出て、二人を引き込む、という算段ですな。
俵を店の中に、というところまではうまく行ったんですが、丁稚が俵を上下さかさまに置いてしまいよって、泥棒は身動きが取れんようになってしまいよった。
そうこうしていると、丁稚と女中がやってきよった。晩飯を食べ損なったんで、芋を一つ二つくすねて、蒸かして食べようというんですな。
俵を破ったらばれるというので、俵の中に上から手を突っ込みよった。さかさになってますから、ちょうど盗人の股ぐらあたりですな。
「あれっ、なんだかこの芋ぽかぽかあったかいよ。焼芋の俵かね?」
「焼芋の俵なんぞ、あるもんかね」
「こっちはへこむ。おかしいや」
「そりゃ腐ってんだよ」
あちこち撫で回されるもんですから、盗人はくすぐっとうてたまりませんが、笑うわけにもいきまへんので、ぐっと堪えます。
下腹に力を入れますと、大きい奴が一つ。
「ブッ」
それを聞いた丁稚が一言。
「気の早いお芋だ」

NHK落語名人選(71) 五代目 柳家小さん 提灯屋・芋俵
柳家小さん(五代目)
ポリドール (1994-12-19)
売り上げランキング: 331,116
談志百席 「芋俵」「新・四季の小噺 冬編」
立川談志
日本コロムビア (2012-08-29)
売り上げランキング: 468,388

【歳時記と落語】彼岸と天王寺さん

9月23日は秋分の日です。これを中日にした七日間が秋の彼岸ですな。秋の彼岸というと付きものが「おはぎ」ですな。「ぼたもち」と「おはぎ」の違いは春の彼岸のところでふれてますんで、ここでは割愛します。
もう一つ、この時期になりますというと、あちらこちらの道ばたを赤く彩りますのんが「曼珠沙華」、別名「彼岸花」です。血の色のような真っ赤な花が印象的ですが、ようく見ると、枝分かれもなければ葉っぱもない、奇妙な格好をしておりますな。実は葉っぱは花が終わったあとで生えてきます。しかし、実はないないづくしにもう一つ無いモンがあります。それは種です。彼岸花は球根でしか増えることができません。ほならどうやって日本中に広まったのか。球根が何かに紛れていったというのもあるでしょうが、殆どは人間が持っていって植えたもんです。つまり、日本中の彼岸花は一株から増えたもんで遺伝的には全部同一なんですな。これは種子では増えず接ぎ木などでしか増やせない桜のソメイヨシノも同じことです。
なんで彼岸花が各地で植えられたのか。手向けとして墓などに植えられたという話もありますが、全体に毒があることから、土手や畝に植えて穴を開ける小動物よけにしたという説が有力やそうです。
また球根の毒の成分は水に溶けるんで、粉にしてよう水洗いすれば毒が抜ける。それを、救荒食にしたこともあるそうです。しかし、まかりまちがうと死んでしまう程の毒をもっとりますんで、まあお試しにならんほうがええやろうと思います。
彼岸の噺といいますと、「天王寺参り」がございます。
愛犬を死なせてしまった喜六が甚兵衛に誘われて、犬の供養に四天王寺さんへお参りにまいります。境内は露店が店を並べてやかましい言うて客を呼んでおります。

ほぉ~ら、握りたて、うまいのん握りたて、どぉじゃい。江戸寿司じゃいな、早や寿司じゃいな。

本家ぇは竹独楽屋でござい。本家ぇは竹独楽屋でござい。

亀山のチョ~ン兵衛はん。亀山のチョ~ン兵衛はん。

二人は境内をあちこち廻って、引導鐘のところへやってまいります。
「あのう、これひとつ、よろしゅうお頼の申します」
「はいはい。なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ。今日引導鐘の功力(くりき)を以って、三月十五日の諸霊俗名……クロ? これはご婦人ですか?」
いえ、それね、オンでんねやわ」
さて、坊さんが犬の引導鐘をつきますと、その音が何やと犬の唸り声にも聞こえてきた。
「坊さん。引導鐘は三遍までと聞いてんねん。三遍目、わたいに突かせておくんはなれ。」
「ああ撞いてあげなされ、功徳になりますで」
「えらい済んまへん、おおきに。クロ、ええ声で頼むで。ひのふのみっつ」
すると鐘がクワァン。
「ああ、無礙性(むげしょう=乱暴)にはどつけんもんや」
途中、境内を廻るところが実に細かく、ちゃんと観光案内になっております。落語は丁稚の耳学問と言いますが、笑いだけやのうて実用的な面もあったんですな。

六代目 笑福亭松喬 上方落語集「天王寺詣り」「貧乏花見」
笑福亭松喬(六代目)
コロムビアミュージックエンタテインメント (2008-08-06)
売り上げランキング: 655,193

【歳時記と落語】中秋の名月と星の都

9月16日は敬老の日でした。元々は9月15日でしたが、2001年の法改正いわゆる「るハッピーマンデー制度」で翌年から9月第3月曜日となりました。兵庫県多可郡野間谷村が1947年に提唱した「としよりの日」が元になったんですが、なんで9月15日かというと、実は確かな根拠がないんです。提唱した人は「ハッピーマンデー制度」に反対やったそうですが、そもそも日付の根拠が薄かったんやさかいに、これでもええんやないでしょうかね。
その後の19日が、旧暦の8月15日ですんで、「中秋節」ということになります。いわゆる「お月見」ですな。ススキを飾って月見団子を備える。と言いますが、天保の人・喜田川守貞が記した『守貞謾稿』には、京大阪ではススキは飾らんかったらしいんですな。それに月見団子も江戸はまん丸ですが、京大阪は俵型でこれに小豆餡を衣につけます。この辺は今も割合に残ってる風習の違いですな。
どうもこの京阪風の月見団子は里芋を模したもんやったらしい。今でも里芋を供えるという古い風習が残ってるところもあって、十五夜の月を「芋名月」てな呼び方もすることがあります。月見は収穫を祝う行事でもあったんです。
また宮中では、芋と茄子を盛って天皇にお出しし、天皇は茄子を箸で三度突き刺して、その穴から月を覗いて願い事をしたとも言います。江戸時代には割りと一般的にこれに倣ったことがされておったようです。
アジア圏でも同様に月見行事が行なわれるわけですが、中華圏ではなんと言うても「月餅」が付き物ですな。中国では高価な月餅が賄賂代わり贈られるんで、それを禁止するようになったという話も聞きます。
「山吹色の菓子でございます」
「お主も悪よのう」
というのが、あちらでは、今でもホンマにあるんやさかい大したもんですな。
また、ランタン・フェスティバルも彼方此方で催されます。ランタンとは言うてもただの燈籠やなしに、人形やとか建物やとか相当大きなもんが作られて街角や公園を大いに賑やかします。
まあ、大概「月」が中心の行事ですんで静かなもんなんですが、異彩を放っておりますのが、香港の大杭で行なわれます「舞火龍」です。19世紀の終わりごろ、大杭は台風と疫病に襲われて大きな打撃を受けました。その時にある占い師が、「中秋節に三日三晩、火の舞を続ければ災いが去る」と言うたんやそうです。村人は縋る様な思いで藁で大きな龍を作り、無数の線香で表面を覆い、火を付け、そして太鼓と爆竹を打ち鳴らし、踊り続けたところ、疫病がおさまったんやとか。それが今でも続いているんです。
黎明と任賢齊主演の香港映画『火龍』でも象徴的に使われてました。

さて、月の落語というと、「月宮殿星の都」でしょうな。
ここにおりました我々同様という男、友達に「一杯飲ましたろ」と誘われますが、ええ話というのは裏があるもんで。この友達が知り合いからウナギを5匹ももろうたんで、それを料理してほしいというんですな。
一杯飲むためやと、ウナギをつかみにかかりますが、ぬるぬると滑ってなかなか上手いこといかん。仕舞いに、上へ上へと逃げるウナギを逃すまいとしているうちに自分もどんどん上へ上へ。屋根まで上がってしまいよった。
すると、向こうの方で竜巻の小さいのがギリギリィ~ッと巻いて来たかと思いますと、今まで一尺ぐらいやったウナギが胴回り三尺ぐらいになりまして、男を尾っぽで巻いたかと思うと、中天へさしてズーッ。
それもそのはず、このウナギ、海に千年、川に千年、池に千年、三千年の劫経たて、中天へ昇天しょうという機会をねろうておったんですな。こんな男の手にかかるようなもんやありません。
ウナギは、一緒に連れて行くのは邪魔臭いとでも思うたのか、男を途中で雲の上へ放り出して、そのまま天へ昇って行きます。
そこに下りましたのが雷の五郎蔵。先年、雲の切れ目から落ちたところをこの男と嫁はんに助けてもろうたというやつです。その雷の五郎蔵に案内されて、月宮殿へ。五郎蔵が奥へことわりを言いに行っている間に、この男、御簾の奥にあるつづらを開けよった。
中に入ってたんは「ヘソ」です。なんでも雷というもんは二十歳になったら、このヘソを一つもらう。そうすると神通力が付いて空が飛べるようになるんやそうで。
すると、この男、ヘソを一つ取ると口の中へ。これがなかなか美味い。もう一つ食らうてから、嫁さんの土産にしようとつづらを背負うて表へでます。
ヘソを喰うたんで宙に浮いてスーといくんですが、役人に見つかって追いかけられます。そして雲の切れ目から足踏み外して下へドスーン。落ちたところが自分の家です。ちょうど嫁はんが洗濯しております。
びっくりした嫁はん、亭主とは知らずに手にした杓で打ち付けます。
「痛い痛い。無茶をしなっちゅうねん」
「まぁッ、あんたやないかいな、どこ行てなはったん?」
「ウナギに連れられて、中天まで行てたんやがな。お前のためにと、重たいつづら背たろうて来たのに。それをお前、杓でどつくてな。どういうこっちゃ」
「ヘソの仇は長い杓で討ったんや」

【歳時記と落語】電話の散財

9月の二週目は、これといったもんがないんで、9月11日の「公衆電話の日」に因んで、電話の話でもしようかと思います。
しかし、「電信電話記念日」は10月23日、1869年に初めて電信が引かれた日を、「電話創業の日」は12月16日で、1890年に東京横浜間で事業が開始された日をそれぞれ記念日としております。
初めのころは、電信電話の仕組みは庶民にはようわからなんだ。手紙を遠くまで送ってくれるというんで、電信の線に手紙ぶら下げた人もあったんやそうですな。
「公衆電話の日」というのは、1900年に東京の新橋と上野駅前に始めて公衆電話が設置されたのを記念したもんです。もっとも、当時は「自動電話」と呼ばれとったそうです。この頃の電話というのは、交換手を呼びだして、自分の電話番号と相手の電話番号を伝えて繋いで貰うというもんで、この「自動電話」も自動とは言うても、交換手に相手の電話番号を言うてからお金を入れて繋いでもらうもんやったんですな。交換手のいらんダイヤル式の電話が登場するのは1925年、その頃から「公衆電話」という言葉が出てきたんやそうで。
当時の電話というのは、ちょいちょい混線したんやそうですな。いまどきはそんなことはまぁありせんが、一昔前までは偶にあったもんです。大正の頃は、そんな混線を解くまじないがあったんやそうです。「話し中」と叫んだらええというんですな。
なんでそんなんで直るかというと、これにはからくりがあって、当時の電話というのは交換手には聞こえてたらしいんですな。それで「話し中」と叫んだら、交換手が混線に気がついて直してくれたんやそうです。プライバシーやら個人情報やら通信の秘密やら喧しい今の世の中からしたら、考えられへんぐらいにのんびりした話ですな。
その時分の創作落語に「電話の散財」というのがあります。二代目桂文之助の作とも、その師匠・二世曽呂利新左衛門の作とも言われますが、今に伝わるのは二代目林家染丸の型で、林家染丸一門以外ではまずやらん噺です。
さて、昔から大店の悩みの種はといいますと、若旦那の道楽と相場が決まっておりますが、大阪にございます、さるお店は全く逆でございまして、若旦那の方が、親旦那の道楽に手を焼いている次第でございます。
しかもこの若旦那、選挙に出てなさるんですな。そんなわけで、事務所から呼び出しの電話が掛かってまいります。しかし、親旦那一人にするとまた遊びに出かけるやも知れん。それはこの時期どうにも体裁が悪い。そこで若旦那、「十日でも二十日でも、行きやせん」と親旦那に約束させた上に、番頭にきつう言いつけて事務所へ向かいます。
ところが、若旦那の姿が見えんようになった途端に、親旦那は「羽織を出しとくれ」ときたもんです。ミナミへ繰り出そうというんですな。
番頭はここで親旦那に出て行かれたんでは、後で若旦那に合わせる顔がない。そこで一計を巡らせます。
「旦さん、ミナミへ電話を掛けて、電話室の中で、唄を唄うてもろうて、それを、こっちで聞くというのはどうです」
「それでは、顔が見えんがな」
「お写真が見たらよろしいやないかいな。わたいが、お酌いたします」
こらちょっと、よそにはない、こらおもろいと親旦那も乗り気です。
先方へ電話をいたしますと、今お風呂へ行ったはるというので、折り返し電話をしてもらいます。お店の番号が「西の五千九百十番」、「じじ ごくどう」ですな。
酒肴を取り揃えて待っておりますと、先方から電話。電話室で三味線弾いて唄を唄わせて、おまけに、いつもの通り芸妓やら太鼓持ちも呼んでもらいます。

♪梅にも春の 色添えて 若水汲みか 車井戸
音もせわしき 鳥追いや 朝日にしげき 人影を
若しやと思う 恋の欲……♪

「梅にも春」ですな。陽気にやっておりますと途中で、
「昨日お見せになりました見本の口、どぉなりましたんや?」
混線ですな。こういう場合は「話し中」というと直してくれたんです。
そこで親旦那が「話し中」と言いますと、元の「梅にも春」に戻ります。しばらくするとまた混線。
「話し中」
いよいよ賑やかにいこうというんですが、どうも電話の向こうは元気がない。飲み食いなしの空散財やったんですな。食べるもんやら酒やら用意させまして、今度は賑やかに「磯節」です

♪磯で名所は 大洗様よ
松が見えます ほのぼのと
見えます ほのぼのと……♪

「アァ~、テヤテヤテヤテヤ、イササカリンリン、スカレチャドン
ドン、ハァ~、サイショネ……」
電話室の中で、赤うなってやっております親旦那、傍から見たら茹蛸の裸踊り同様というやつ。
そこへ忘れ物でもあったのか、若旦那が戻ってまいります。見ると親旦那は電話をしているようやが、どうも様子が普通やない。
「お父さん!」
「あ、コラコラ」
「おかしな具合やで。お父さん! わたしが分かりまへんか? もぉ~し、
お父さん! もぉ~し!」
「えぇ、何やまたか。話し中ッ!」

上方落語のネタ帳
上方落語のネタ帳

posted with amazlet at 13.09.09
小佐田 定雄
PHP研究所
売り上げランキング: 216,135

【歳時記と落語】目黒の秋刀魚と昭和天皇

9月7日は白露になっております。これからの時期は夜は冷え込むようになってきます。すると草花に朝露が宿る、そういう様子から「白露」という名前が出来たんでしょうな。朝夕は肌寒さを感じる頃合ですが、日中はまだまだ暑さが残ります。
食欲の秋てなことを申しますが、確かに何かと食べ物がおいしい季節を迎えます。その中でも、庶民の味覚の代表といいますと、やっぱり秋刀魚をおいて他にはないでしょうな。
もっとも、秋刀魚は北から下ってきますんで、銚子あたりで旬を迎えるのは10月から11月、和歌山あたりでは12月くらいです。この頃になりますと、だいぶ脂も抜けてあっさりした味になってくる。そこで和歌山では秋刀魚の棒寿司やなれずしが作られております。
秋刀魚の落語というと、これはもう「目黒の秋刀魚」をおいて他にはありませんな。
さる殿様が目黒へ鷹狩に出たんですが、供が弁当を忘れた。するとどこからか旨そうな匂いが漂ってきたんですな。それが秋刀魚を焼く匂い。空腹でたまらんお殿様は食べたいと仰せられた。びっくりしたのは家来です。当時、秋刀魚は下魚とされておりましたんで、共侍はともかくお殿様の食べなさるもんやなかったんですな。
とはいえ、お殿様の仰せとあって仕方がない。近所の百姓のところから焼いた秋刀魚を御膳へ。生まれてはじめて、しかも空腹ということとも合わさって、このお殿様、秋刀魚がえろうお気に召しました。
しかし、秋刀魚なんぞがお殿様の食事には出てこないんです。
ところが、親族の集まる機会があって、望みのもの聞かれたお殿様はここぞと秋刀魚を所望します。 しかし、調理方は秋刀魚の脂に当たってはいけない、骨が喉に刺さってはいけないと手間の上にも手間をかけて料理いたします。 そんな秋刀魚がうまかろうはずがありません。 そこでお殿様、
「いずれで求めたさんまだ?」
「日本橋魚河岸で求めてまいりました」
「それはいかん。秋刀魚は目黒に限る」
 さんまが上がるはずもない目黒を秋刀魚の名所と勘違いというのが面白みの一つであるわけですな。
秋刀魚が下魚でやんごとなき方のお口には入らなんだというのは、何も江戸の話だけやありません。明治になっても皇室の方々は青背の魚は召しあがらなんですな。
ただ、昭和天皇は秋刀魚が大好物で、病床につかれたときに医師から食べたいものを聞かれて、「サンマかイワシのようなもの」とお答えになったんやそうです。
実は皇族で始めて秋刀魚を召し上がったのが昭和天皇なんです。
草柳大蔵氏の『昭和天皇と秋刀魚』にそのエピソードが書かれております。  
昭和天皇がまだ迪宮殿下といわれ、弟宮・淳宮殿下(後の秩父宮殿下)と皇孫御所におられた時分、明治38年ごろの話です。
 当時、御養育係担当の女官やった足立孝子というお方、府立第二高等女学校師範科(保育専攻)を卒業後、東京高等師範学校附属幼稚園にも奉職されたという経歴の持ち主。白身魚ばかりの食事が育ち盛りの宮様方にはよろしくないと、「あきがたな」という魚と言って、秋刀魚をお出ししたというんです。
両殿下とも初めての秋刀魚がいたくお気に召したようで、翌年淳宮殿下は参内の折、食事の希望を聞かれて「あきがたな」とお答えになった。
何の事か分からないので、皇孫御所に問い合わせがあり、慣例を破ったことが分かってしまったんです。
しかし、東宮妃殿下(後の貞明皇后)はその配慮に感激なされ、足立女官は却って大変なお褒めの言葉を賜ったんやそうです。
ところで、秋刀魚の水揚げの一位がどこがご存知でしょうか。北海道の根室なんです。目黒ならぬ根室の秋刀魚というわけですな。

落語一席シリーズ 六代目 三遊亭圓生 「目黒のさんま」
六代目 三遊亭圓生
コロムビアミュージックエンタテインメント (2009-12-23)
売り上げランキング: 377,541
昭和天皇と秋刀魚 (中公文庫)
草柳 大蔵
中央公論新社
売り上げランキング: 1,136,022

【歳時記と落語】二百十日と地震

9月1日は雑節の一つ、二百十日です。その名前の通り、立春から数えて210日目に当たります。時季としましては、稲が実をつける頃ですが、それと同時に台風の多い時でもあります。その目安として、暦に記されるようになった。実際に昔から伊勢の船乗りたちは、この日を凶日としてたんやそうで、言うてみたら生活の知恵ですな。まさに、いま台風15号が太平洋ベルト直撃かという針路でやってきておりますな。
 そんなわけですから、台風の害から農作物を守る為の風鎮めの祭りが行なわれきました。それが今でも日本各地に残っております。富山県富山市八尾町の「おわら風の盆」なんかが有名です。
 そんな二百十日の落語というと、これは直接の関係はなかなか難しいんですが、落語が二百十日に影響したという話はあります。
 なんのこっちゃ、と思われるかも分かりませんが、夏目漱石の『二百十日』のことです。 そもそも明治の文言一致、話し言葉で文章を書くという流れには三遊亭圓朝の速記本が大きな影響を与えたとも言われておりますんで、落語と文学というのは縁が深いんですが、漱石が落語好きやったというのは有名な話で、『三四郎』の中にこんな一節があります。

小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢやない。何時でも聞けると思ふから安つぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。――圓遊も旨い。然し小さんとは趣が違つてゐる。圓遊の扮した太鼓持は、太鼓持になつた圓遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。圓遊の演ずる人物から圓遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ、小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。

 作中の人物の言葉とはいえ、漱石自身がよほど落語好きで聴いておらんと出てこない言葉ですな。
 さて、『二百十日』ですが、その冒頭はこんな感じです。

ぶらりと両手を垂さげたまま、圭けいさんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行あるいて来た」
「何か観みるものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏いちょうの樹きが一本、門前もんぜんにあった」
「それから」
「銀杏いちょうの樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」
「這入はいって見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」

 これが漱石の小説か、と思うほどにセリフばっかりなんですな。しかもその会話が微妙にかみおうてません。これはまさに喜六と清八、江戸ですと熊と八のやり取りです。その他にも「浮世床」や「愛宕山」を思わせるような場面もあります。(これについては、水川隆夫『漱石と落語』に詳しい)

 また、9月1日は1923年に「関東大震災」が起こったことから、昔からの厄日の考えとあわせて、災害について考える「防災の日」に定められております。
 地震の落語というのも、ないんですが、まあ小咄はないことはない。

新婚夫婦の初夜の話や──。二人で枕を並べて寝てたところ、食べたもんの都合が嫁さんの方は、なんやお腹の方がはってしようがない。嫁いできたばっかりで、こんな粗相しでかしたら愛想付かされてしまうと我慢をしておりますが、出物腫れ物ところまわず、ついに一発おならをしてしもた。慌てて横を見ると、旦那は寝息を立ててる様子ですが、もしも聴かれてたら、明日の朝どんな顔してええやわからん、心配になって、旦那の肩を叩いて、
「ちょっと、ちょっと起きて、あんた」
「ん、なんや」
「今のん、気ぃついた?」
「何が?」
「何がて、今の…地震」
「えっ、地震あったんか。ちょっとも知らなんだがな。屁の前か後か?」

 それから、こんな話もあります。
 ある日、年頃の男が親に黙って、家の二階へ恋人を連れ込んだんですな。朝早う起きて、親が寝ている内に帰したええと思うてたんですが、よほど疲れたのか、起きてみますとお陽さんもすっかり昇って、下は朝餉の気配です。
ええい、しょうがない、と覚悟を決めてなんでもない風に装って下へ降りてご飯を食べ始めます、
すると父親が
「昨日の夜中な、なんや天井がガタガタギシギシいうとったが、なんやったんろな?」
息子は一瞬うろたえますが、それを隠して
「はァ、地震があったみたいですよ」
「そうか、地震か」
そのまま話は終わり、食事を終えて息子が二階へ戻ろうとすると、父親が一言。
「おい、二階の地震にも朝飯食わしてやれ」
 まあ、なかなか粋な親父さんがあったもんで。