あべのハルカス、125年目の栄光

今月7日、阿倍野に「あべのハルカス」がグランドオープンしました。高さ約300メートル。日本一の高さの高層ビルになりました。展望台は、大阪湾まで見渡せる眺望と、パインアメアイスで、なかなかの人気だとか。夕暮れ時がお薦めという話もありますが、大昔は、阿倍野筋のすぐ西まで海が迫っていました。そして夕日の名所として知られていました。ハルカスのすぐ北、天王寺区になりますが、ここには四天王寺があり、その一帯には「夕陽丘」という地名が残っています。まるで新興住宅地のような地名ですが、由緒ある地名で、嘉禎2年(1236年)、浄土宗に帰依した藤原家隆が「日想観」を修行するために、この地に「夕陽庵」をむすんだことが由来とされています。

さて、この「あべのハルカス」ができるまで、日本で一番高かった高層ビルは「横浜ランドマークタワー」で295.8mです。今回、「あべのハルカス」が日本一になることで、実に125年ぶりに、その栄冠が大阪に帰って来たのです。

かつて、一瞬だけですが、大阪には日本一の高層建築がひしめいていました。何とっても有名なのは、東洋一と言われた初代「通天閣」。1912年に完成し、高さは約75mでした。「大大阪」と呼ばれた時代の話です。

今回のお話は、それよりもまだ十年以上遡ります。

時に、1888年(明治21年)、西成郡今宮村に「眺望閣」というパノラマタワーが建てられました。高さ31m、5階建ての建築物ですが、当時は日本一の高さのビルでした。

翌年、西成郡北野村に「凌雲閣」が建てられました。高さ39m、9階建てでした。

この界隈は「茶屋町」と言われるように、当時も茶店が軒を連ねていました。そこに温泉や、ボートがこげる池などを備えたレジャー施設「有楽園」が作られました。その中心となる施設として建てられたのが、「凌雲閣」でした。1・2階が五角形、3から8階が八角形、9階には展望台と時計台がしつらえれていました。

「眺望閣」と「凌雲閣」はそれぞれ、「ミナミの五階」「キタの九階」として親しまれました。

しかし、日本一の期間は短く、翌年には東京浅草に奇しくも同名の「凌雲閣」高さ52mに、その座を奪われてしまいます。こちらの「凌雲閣」は「浅草十二階」の名称で親しまれました。写真は「大江戸博物館」に展示されている模型です。

この「浅草十二階」に日本一の座を奪われてから実に、125年。「あべのハルカス」の開業によって、栄冠が大阪に帰ってきたわけです。

ところで、大阪であと高い建物というと、「りんくうゲートタワービル」(256.1m)、「大阪府咲洲庁舎」(256.0m)。200mクラスの高層ビルもありますが、港区や中央区で、北区梅田周辺には、あまり高い建物がありません。

これは、大阪国際空港(伊丹空港)の存在が影響しています。空港周辺には、航空機の離発着のための航路を確保するためにさまざまな制限が設けられますが、建築物の高さ制限もその一つ。高さの制限区域は空港から円錐状に、ある程度のところで水平になっておわります。

数年前に、この水平制限区域(外側水平表面)が見直された結果、阿倍野周辺の制限が解除になりました。地図で、円錐表面と外側水平表面が外側に作り出す鋭角な角のところに「あべのハルカス」は位置しています。

ちなみに、「眺望閣」と「凌雲閣」の跡がどうなっているかというと、「凌雲閣」の跡には梅田東小学校が建てられ、今はその小学校も廃校となり、梅田東学習ルームになっています。

正門の脇にひっそりと記念碑とプレートが設けられています。

一方の「眺望閣」は、大阪日本橋のNTTが有る辺りにあったらしいのですが、そんな記念碑もありません。しかし、「ミナミの五階」は生きています。

「眺望閣」ができてから、あの界隈は「五階」と呼ばれるようになりました。そしてそこに集まっていた露店などが、総称して「五階百貨店」を名乗るようになります。

いまも、その界隈は「五階百貨店」と称されていて、電気工事士などプロ御用達の電気屋・道具屋があつまるところとして知られています。

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